第3章  鴨料理

妙子は、みるみる憔悴していった。

実家からくる時、はめてきたサファイアの指輪が、ある朝、食事のとき、指から抜けて、彼女の膳の上にころがった。

国夫が、離室に泊り、廊下づたいに戻ってきた朝のことである。粋な唐桟の丹前に半天をはおり、中肉のよくしまった国夫の肩のあたりには、小さなせいの躰を自在にした男の力が充ちているようであった。そして、その腕は、いち早く、人影をぬすんで、妙子の肩を抱きよせようとする良人の腕なのである。

せいはと言えば、はじめて妙子が見たときとおなじ初々しさで、つつましく三人の食事の給仕役をつとめている。三人の誰の膳からもおなじに盆を差出せるところに、つつましく坐り、国夫の愛撫も当然なら、自分が女中の位置にあることにも、何の疑いももたぬげに、ただ一途にまめまめしいのである。

膳の上にころがった指輪を見、せいを見、した妙子は、もはやそんな場所に坐っているせいを見馴れている自分の眼に、はっとしたのである。浅漬の小鉢のかげになったサファイアの青が、そのとききらりと光らなければ、それはやり過したかもしれぬ些細な瞬間の思いであったが。……

前日、妙子は実家へ出かけていったのだ。

二月というのに、北陸では珍しく陽の照った暖かい日であった。友人の家へ、と言って彼女は家を出たのである。彼女はすでに孕っていた。そんな躰の異常を知ったことで、何がなし、今日この頃の身辺の打明け話をして、兄か嫂に聞いてもらうつもりであったのだ。

だが、兄は商用で京都へ出向き、子供たちを学校へ出して、嫂はひとり座敷で、せっせと縫物の針をはこんでいた。末の弟も中学へ行って留守であった。

嫂は、妙子の来訪をきげんよく迎えた。茶室で、大樋焼の新作を見せてもらい、点前を代る代るやって、正午ちかく、妙子は帰ってきた。

嫂の、百年一日とでも言いたい平穏な良妻ぶりは、一旦嫁いでしまった妙子に、よそよそしいほど取りつきようのない、無聊なものであった。

妙子は今更のように、自分を着飾らせたあのきらびやかな花嫁衣裳の重たさや、婚家に運ばれた荷の仰々しさの意味を感じた。実家の門は、あの日限り、自分を運び出したあの華麗な、過重なもののために、かたく閉されてしまったことに気づいたのである。

一抹の感傷もなく、愁嘆場も味わわずに、妙子はラクダの臙脂のショールに頬をうずめながら、徒歩で帰ってきた。途上、クラスメートの沖津芳子に逢った。偶然、妙子が家人に告げた外出先の友人の名の人である。芳子は紫倫子のコートを羽織り、芸ごとの帰りらしく、雪駄にひっかけた足袋が真白だった。大きな紙問屋の娘である彼女は、美貌の点でも、勉強の点でも、桐野妙子とは、よい競争者であった。卒業して直ぐ、ひとつの縁談が、二人にかかわりのあったこともあった。

芳子は、まだ家に居て、芸ごとに身を入れていると言い、明日は琴の演奏会があると言い、茶の湯は、つい先日免状を得たなどと、勢い立った喋り方をした。冷やかな聞き手にまわって、妙子は肯きながら、そんな芸ごとに憂身をやつしている未婚の友を、哀れにも訝しがった。美しいものが美しくなくなり、愉しいことが愉しくなくなる、そんな人生の交替の時を、自分はすでに踏みきってしまった。……

だが、ふしぎな時に悲しくなるものである。

沖津芳子と別れて、狭山の工場が見え出す広っぱに来かかると、妙子は胸をしめつけてくる悲しみを味わった。

低いが、活力のある機械の噪音が、コバルト色の空の方から耳を圧して来、深々と雪を硬く積んだ広っぱを横ぎる妙子は、その機械の音にも馴れ、狭山の人となった自分を、まざまざと感じたのである。

二階の、彼女たち夫婦の寝室の障子が明け放たれて見える地点に来て、妙子はまた佇ちどまった。久々の陽光に、華やかな友禅もようの夜具が干されてあって、そのかげに、白いエプロン姿のせいが立膝姿で、夜具のほころびを縫っているのであった。

「せい!」と声をかけた。

逸早く妙子を見つけたせいが、小さなしかめつらしい顔をみるみる笑顔にして、内玄関へまわった。妙子のショールも、コートも、せいの手で外される。姑の居る店の間へ、ただ今と声をかけておいて、妙子は自分の居間へ来た。

いそいそと熱い茶を運んでくるせいの姿を、じろりと眺めやる自分の眼は、良人の国夫の目つきを真似ているのではないかと、妙子は思った。良人が惹かれているものに、しみじみと惹かれてみたい。渇えるようなそんな気持になるのは、このような外出の前後であった。そして、せいになにか重大なことを言いそびれていると思う。

せいが、白い、ま新しいかっぽう着を持ってきて、彼女の背後にまわった。

「今さっき、御近所から鴨を頂きまして、旦那さまがお料理して居られます。お姑さまも、せいも逃げたものですから、――お手伝いして上げて下さいまし。」

国夫は料理が好きで、殊に女が厭がる鶫とか、鯉とか手数のかかるものは、自分から包丁をとることが、しばしばあった。

「羽毛はどうなの?」

「羽毛はむしってございました。何処でむしったものやら、あちこち渡り歩いて、面倒がられてこちらに来たものと、お姑さまも言うてです。」

「いっそ、鳥肉屋へ頼めばいいものを……。」

「おいでになって、まず臭いをかいでごらんなさいまし。誰も欲しがりませんものを、それはそれは旦那さまが……」

「ご熱心なことだねえ。」

妙子が笑うと、せいも笑った。ころころと少女のように笑うのである。

――何時この女は自分の一緒に哭き出すであろうか。その笑い声がやんだ時、妙子はそう思った。この笑いが、そのまま二人の嗚咽に変ってゆきそうに思えたのである。それは何時かきっとある場面にちがいなかった。そしてその時、妙子は自分がせいに言いそびれている言葉をはっきりと思いあたったのである。

「何時、お前は帰るのか?」と。

今、目の前で給仕をしているせいに対って、改めてその言葉を口にしかねない怒りが、膳の上のサファイアの青に眼を据えたとき、彼女の心に盛上ってきたのである。

だが倖いなことに、周囲は、まるでちがったことに心を奪われていた。

国夫とりつは、箔とことで言い争っていた。

箔の大量生産をしなければ、と国夫は言張っている。地金で制限をうける金、銀箔に頼らず、洋箔(銅、真鍮箔)アルミ箔の大量生産で、印度やシャム(タイ)、アメリカ向の輸出に本腰になりたいと言うのだ。漸くドイツ箔の没落のあとを受けて、日本箔が世界市場に進出し評判になろうとしている時節である。

「たいへんなこっちゃ、機械からして購わんならんがの…。」

「それしか、職人を救う道はない。」

りつは、勢った息子の言い方に嗤い出した。

「あんたは変人です。誰もそんなひどい目に遇うたと思っとりはせん。」

「そんな筈はない……」

「ほゝゝゝゝ、えらい学問してきましたの。大学で……。」

りつは息子の大学進学に最初から反対だったのだ。国夫が選んだ文科と言うのは、世間では何の役にも立たぬ学問だと独りぎめして反対した。りつと較べて、不断あまり子供のことに関心を持たぬげに見えた父親の方は、その時も放任主義と言えば放任主義を取ったのだが、結果として、息子の意志を尊重したことになった。小学校を出ただけで、小僧から叩きあげた先代には、学問に対する郷愁が多分にこの場合作用したのである。

いつも温良しい国夫が、この時顔色を変えて、職人の生活のことら触れに容子には、りつもさすがに気重いものを感じてしまった。

更にりつは、日々の店の現状については、誰より詳しいと信じている。夏期に入る前の大量ストックというものが、どんなに恐ろしいものか、過去にも度々経験しているのである。

彼女は、店の間に声をかけて、番頭の群太郎に来るように言った。

群太郎は、細工場から帰ってきたところであった。金粉篩いでもしていたらしく、箔屑だらけの作業服を着て入ってきた。機械油や垢で汚れた作業服にくっついた箔屑はこの上なく穢らしく見える。無愛想で、年よりはずっと老けて見える陰気な容貌も、一番番頭の名に似つかわしくなかった。

十五年前、狭山商店の店前にはられた店員入用のはり紙を見て、ふらりと入ってきた見すぼらしい孤児が、やがてただならぬ商才を認められて、十年後には番頭に取立てられ、先代に店をまかせられるに至ったと言う。そんな経歴の男が、妙子の眼に、どこか底知れぬ陰性型の変人としてうつっていた。

獣医とか、土木技師とかいった詰襟の服を不断は着込み、自転車に乗るときは、ロシヤ人のように耳にまで毛の付いた帽子を、ふかぶかとかぶった。そしてその奇妙な扮装から覗き出る彼の眼付や無精髭の顎は、別人のように精悍なのである。

妙子が嫁いできた翌日、使用人がそろって彼女の居間に挨拶に来たときも、群太郎だけは決して他の使用人のようにぺこぺこしなかった。その時もこの穢らしい作業服を着ていた。

彼は、言葉だけはていねいに頭を下げたが眼差には、反感とも侮蔑ともつかぬものが感ぜられた。自分の美しさを無視しようとしている男の眼に、妙子は初めて出遇ったのである。

妙子は、度々彼が夜おそくまで、店の彼の机にむかって、神妙に講義録や、固苦しい書物を拡げているのを見たが、そんな真摯な姿の時ですら、なにか傲慢なものしか感ぜられぬのだった。その彼が、りつに対してだけは慇懃そのもので、それがりつの気に入っていた。彼にとって、りつは、最初に母親らしい親切をみせてくれたひとであった。りつは実によく彼の面倒を見、陰に陽に取立てたのである。

彼は入ってくると、りつが差出した座布団を、恐縮した風に二つに折って背後におき、妙子の横に坐った。自分一人の思いに憑かれていた妙子は、この時漸っと、自分の躰ちかく金粉が舞上るのを、煩しく瞠った。

群太郎は、国夫の話をじっと傾聴し、むしろ聞き流しているのではないかと思うほど、一度も途中で言葉をはさまなかった。そして聞き終ってから、意外にも、国夫の主張に賛成したのである。

「輸出をたのむまでもなく、箔の出る分野はこれから無限ですよ。箔が、金持や寺の独占物の時代は過ぎようとしていますわい。箔は大衆のものにならにゃならぬ。お姑さまの言われることも尤もですが、若い者は冒険も亦やりとうてなりません。」

そんな群太郎の言葉にのって、

「いざとなれば、この人のバックもある。」

国夫が妙子を見て、そう言ったのは、次に資金の話が出ることが、わかっていたからである。

「いや……若奥さまの前ですが。」

と群太郎は制した。

「桐野さんは、あてになさるまい、大してあてにはなるまいと思います。」

国夫の考えていることは、一応彼の胸中にあり、すでに妙子の実家の財力も調べてあるらしいこの口吻りは、妙子に対する彼の反感を、初めて言葉に出したという風にもとれた。

「実は当家にも、何もないです。先代は腹の太い方であっただけに、拡げるだけ拡げられましたからな、はゝゝゝ。」

得意そうに笑う彼は、この店での自分の位置を誇示している風でもあった。新式の機械の購入に伴って、工場の増設に居る莫大な資金として、まず方々に散在している地所の整理、結局は家邸の一部をも抵当に入れて当らねばならぬ実情を説明した。これが完成すれば、東洋第一の箔の生産高も可能だと、話は急に大きかった。

「急げば、この春までに操作もそろい、今年の夏は思いきり機械が動かせますぞ。そうなると、さしづめ旦那さまは、シャム行きか。はゝゝゝ、大変なことになりますぞ。」

勢いよく饒り続け、調子にのって笑い出す群太郎を、妙子はおや、と言った面持で見た。孤児に浸っている時の陰鬱さと打って変って、我意を得た彼は別人のように闊達であった。彼女は、今さっき、彼の無躾な言葉に気をわるくさせられたことをふっつりと忘れている自分の、ふとした移り気のようなものを感じていた。

水芦光子さん原作『雪の喪章』 全文掲載