第4章  深淵

国夫と群太郎の計画通り、事は着々と運んでいた。

季節はまだ冬季のさ中にありながら、珍しく雪を見ない日が続くのを幸いに、工場が一棟建ち、細工場も拡張された。牛の背のようにずんぐりした新式の機械がならべられ、国夫と群太郎は一日そこへ出かけていった。国夫は急速に群太郎と親密になっていった。群太郎が案外文学書を読んでいることにおどろいたり、吝で女遊びも出来ずに居ることや、女中たちに冗談口ひとつ叩けないで、変人扱いされていることを面白がって話した。下職の今村という男に、ちょっとした器量の娘がいるので、彼に取持ってやるという、そんな相談を受けた時、妙子は言った。

「でも、あのおひとでは女の方が逃げてしまいます。……私も初めは心の底のわからないおひとと思うとりました。」

「ところが、今村の娘が、ちょいちょい店へ覗きにきて、惚れたらしいのや。」

「ほゝゝゝゝ、そんなら早くまとめて上げなされ。」

「心の底がわからぬか、それを言えば大方の人間の心の底は分からぬものや。」

と言って、国夫は渋面にちかい表情をちらりとみせた。二人の他愛ない話の終いには、ひょいと落ちていく男女の葛藤の谷間があるのだった。

妙子はめったに店へ出たことはなかったが、ある休み日、誰もいない店を覗いたことがあった。

店の奥には、更に畳敷きで仕切られた三畳ほどの小部屋があって、不断はそこにりつが坐って居、地金や貴金属などを蔵った大きな嵌込みの金庫や、箔を裁つ薄刃類がおかれてあった。其処まで何げなくやってきて、彼女は、蔭に小さな電球を点け、机の前に、独りうしろむきになっている群太郎を見た。

彼は金箔を秤っていたのだ。ガラスのケースから取出された華奢な金色の秤は、うすいきらびやかな金箔と、微量の分銅との平衡を保とうとして、左右に可憐に揺れていた。

その揺れがしずまるのを、じっと見入る妙子の眼は、さも不思議なものを見るように恍惚としていた。群太郎は、ちょっと振返ったが、そんな妙子の眼に行当ると、慌ててまた秤にむきなおった、

二人の眼は、余念なく、ただ一つの秤にむけられ、何故か、その静謐なもののために、心を奪われていなければならないのであった。

やがて木の箸で、器用にその箔をつまんで、彼は、肌色の切紙にはさんだ。

「どのくらいまで計られますか?」

妙子のこの質問は、そのような彼の手許をゆっくりと見ているやさしい女の心づかいのように思えた。

「この秤で、ですか?」

群太郎は、今度は振むかないでこたえた。

「一匁の百分の一です。」

「ずいぶん、微妙なものですね……。」

群太郎のぶっきら棒な答にもかかわらず、金箔はひとつひとつ、うすい切紙の褥にうつし置かれると、なまめかしく躰をくねらせながら、ゆっくりと落ちついてゆくのである。

「生きていますね。」

と妙子が呟くと、群太郎は、秤の手をやめて、ふしぎそうに妙子を見た。

「生きていますか?」

「湿気を吸っても駄目になるものなのでしょう?」

「そう、……年中、火を用意してやります。うつしと言って、こう言う風なことを、火のそばで職人の家族が総がかりで、一日中やっています。」

どんな意向からか、群太郎はそんなことを訴えた。

「この箔は、今村が打ったものですが。……大袈裟でなく、彼の打った箔は日本一です。」

「日本一?……」

しかし妙子が思い浮べたのは、今村ではなく、時折見かけたことのあるその娘の、透きとおるような美しい横顔であった。

そして話は当然そこで途切れた。

妙子は間近かで見る群太郎の、青年らしい眼の光りや、無精髭を生やした唇もとの、意外に温和な微笑に気づいた。再び彼が口を閉じて秤にむきあったのをみて、彼女はそのまま跫音を盗んで退っていった。

 

ある夜、妙子に堪えがたい事件が起きた。

と言っても、それは殊更の出来事ではなかった。国夫が、離室のせいのところへ出かけていったにすぎないのであったが。――

その日は珍しく工場を早く切りあげた国夫と群太郎が、仙女の招きを受けて、廓へ出かけていったのだが、ここも案外早く引揚げて帰ってきたのである。

仙女は、国夫を息子のように可愛がっていて、何か地方の名物が手に入ると、届けてよこしたり、稽古の会がある時は、使をよこしたが、時にはうるさくも思いながら、国夫はその都度出かけてゆく。酒に弱い国夫は、「お父さんに似ても似つかぬ臆病ぼんち。」と仙女にからかわれているほど、女の方にも手を出さなかった。だが、座敷だけは派手に若い妓を集めて、きれいに金をつかった。憎たらしやと仙女は陰口を叩きながら、若いインテリさんは違う、と妓たちに自慢しているのである。

国夫も群太郎も、その日はかなりの酒が入っていたようであった。そして最近にない、別々の不興げな顔つきをして帰ってきたのである。

一合ほどの酒で赫くなる国夫とくらべて、群太郎の方は酒がつよく、顔に現われるということはめったになかったが、その時の容子では、珍しく一升酒をあおったほどの酔いぶりであった。それでも彼は、いつものように、奥の間へ、夜の挨拶の声をかけて、店の間の自室に引きとったが、国夫の方は、ひどく浮かぬ顔をして、縫物をして起きていた妙子のそばに、いつまでも突立っているのである。そして不機嫌に、その着流しのまま、床にもぐったが、眠る容子もなかった。眠りこけるような疲れた表情ではなかった。うっすらと眼尻に涙が流れているのだ。妙子は、時折このような良人の顔にぶつかるのである。泣顔と言うのではなく、悲しくも何ともないような、むしろ放心に近い表情で、良人はよく眼をあけたまま泣いていることがある。

妙子は、近々と顔を寄せて、自分の指で、その眼尻を拭ってやった。女にとって、男の廓あそびは、ただ嫉ましいものでしかない。涙などみせられると、ともに泣き出したいほど腹が立つ。だが、妙子はさりげなくそのまま、膝の縫物に針を運んでいた。

「赤ん坊のものか。」

国夫は、縫物の柄をみて、そう言い、一層空虚な手応えのない顔つきで、天井を仰いでいたが、

「妙さん、あんた、このごろ、群太郎の容子に、なにか気がついては居らなんだか?」

天井から妙子にかえってきた眼は、大きく無気味だった。

「群太郎の奴、酒がたらふく入ったとたん、本性を現わした。ぬけぬけと勝手放題を言う……。」

彼は元来、腹にもちこたえの利かぬ性分であった。それをかなりながい間、胸にためておいて、漸っと、こう口を切ったのは、余程ためらわねばならぬ話だったのであろう。

「彼奴、相手もあろうに、せいを嫁にくれと言うのだ……。」

「…………」

「今村の娘との話が、何やらはかばかしくないと思うとったら、とっくに自分で断りに行ったそうな。そしてぬけぬけと、僕に、せいのことを持出しやがる!」

国夫が部屋へ入ってきた時からの、何やら浮かぬ顔。出すにまかせていた弱く女々しい涙、それが華やかな廓遊びから持ってきたものでなく、せいのためのものであったと思うと、妙子の心は、奇妙なほど狼狽した。あの彼が眼尻を濡らしていた時々が、いつもそのようにせいにつながっていたものであったと、思い知らされ、眼の前に、起上りざま、着物の裾を逃ね、白い脛をみせて出てゆこうとする国夫を険しく遮らねばならぬ瞬間があった。

彼女はこれまで、一度もそのようにぶざまに、良人を引きとめたことはなかった。良人の愛撫か辱しめか、どちらかを絶えず交替で受けとることで出来上った表面の硬ばった感情は、意外につよく内心の動揺をくいとめていた筈である。

だが、その夜それが崩れたというのも、良人のみせた不覚な涙のせいであった。なぜ、せいだけが、良人の涙に値する女なのだろうか。

妻のすさまじいほどの指尖に、着物の裾を捉えられた国夫は、臆病な兎のような顔をして、へたへたと坐った。

「あの時、直ぐにもせいを帰すと仰言った筈です。……」

妙子の言葉はそれだけだったが、国夫の方は、女々しくくどくどと弁解するのである。

「誤解しないでくれ、妙さん、あの女は妙さんの考えているような女じゃない。わかってくれ。」

「…………」

「あれは、ただ可哀想な女なんだ。行ったって、僕はただ、あれの横に坐ってやっているだけなんだ……あれの、針仕事の横に坐ってやってる時が大方なんだ。それでいいと言う……一度も自分でどうしてくれなど、言ったことがない……。」

結局、国夫の弁解は、言わずもがなのことばかりである。却って妻の心を刺す言葉なのである。何故日陰のもろいところにいる女だけが哀れに見え、そんな良人と姑の蔭にひしがれた妻の座にいる者は、一顧だにされないのだろうか。

妙子は氷片のような笑みを泛べて言った。

「そんなおひとなら、群太郎にあてがってやりなされても、よかりそうなものを……。」

「む、あんたまでが……。」

国夫は苦しまぎれに立上ると、逃げるように部屋を出ていった。貌つきが別人のように情容赦のない、冷酷なものと変っていた。斬りつけたいほどの憎しみが、その背後に躍りかかるのを、妙子はもてあました。

騒ぎを聞きつけて、隣室から、とっくに臥た筈のりつが、寝間着にかいまきを羽織った着ぶくれた姿で出てきた。それは今出て行った良人とおなじ程の憎悪をかき立てる相手でありながら、盾つくことのできぬ奇怪な威嚇者の出現であった。妙子の嫁の意識が、こちこちになって、そこに引据えられる。彼女は気の遠くなる情なさで、泣き伏した。

「わかりません、わかりません。……私には、この家の方のなさることがわかりません!」

「何がわからないと言いなさる?」

聞き捨てにならぬ面持で、りつは嫁の前に立ちはだかった。

「わからないことだらけでございます!」

妙子ははっとしたが、この反撥はながく胸中にあった疑問で、どうしようもなかった。

「なぜ、お母さまも、旦那さまも、せいさんを嫁になさらなかったのですか?  あのおひとと結婚なされば、それでよろしかったのに。ましてお母さまの御親戚の方でしょうに、せいさんは……。」

「やくたいもない!」

りつは顔色を変えて言った。

「身分がちがう。あれが両親なしで、貧乏人の娘だということぐらい、あんたにはわからんのかね。――だからと言うて、今更あれを放り出すわけにもゆかないじゃないけ。どうしても置いてくれという女子を――あれはあれで、家の役に立っていますのや……そんなことで気を揉むようでは仕様がない……妙さん、あんたはもっと大きな気持で居なさるものよ、ただならぬお躰やさかい。」

自分とせいと、二人の女が必要だったのは、国夫より、この姑の方であったのを、妙子は漸く思い知らされたのである。

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