第6章  秤が搖れる

彼は、狭山の家へ、連絡をとらなかった。

妙子が山の中で昏倒していたことも、自分が助けて、貸席まで連れて帰ったことも、主家へは報告しなかったのである。

妙子は貸席の一室で、一時間も眠るうち、意識を恢復し、著しく元気を取戻した。その間、群太郎は、別室で酒をあおっていたが、やがて、妙子の部屋を覗くと、改まって言った。

「ともかくも今日一日、ここで静養なさいませ。」

そう言っておいてから、おそらく妙子が一番訊きたがっているであろうことを口にした。

「家内へは、何もまだ知らせてはありません。」

「…………」

「私は、このままお知らせしないつもりで居ります。」

すでに彼の貌には、不埒な、不屈なものが漲っていた。

顧客や同業者を案内して現われる狭山商店のこの番頭と、「ちどり」の主人友造とは、懇意な間柄であった。友造は、早朝から戸を叩いて入ってきた人事不省の妙子と、彼女を背負ってきた群太郎の尋常でない物腰に、度肝を抜かれたかたちだったが、いきなり群太郎から差出された多額の茶代に、二度びっくりした。

「いろいろと、家内に揉めごとがあって、若奥さまが家出をなされたのだ。所もあろうに、夢香山のてっぺんへ……私が、いま二分も遅れたら、死んでいらしたことや。いろいろの事情で、家へは帰りたがられんので、暫くここで養生させて上げて下され。……容子を見て私が万事手を打ちますからに。」

友造夫妻へ納得のゆくように話を切り出してから、彼は一切を内密にしてくれるようにと執拗に念を押した。

「新聞にでも出たらことやからな。二、三日中には何とかしますから、絶対内緒に頼みますぞ。」

「…………」

「たとえ旦那が尋ねてきてもだ!」

この最後の彼の言葉に、友造たちは、不可解というより無気味なものを感じて、気圧されたように頷いたが、絵に描いたように美しい若奥様と、見るからに陰気で風采のあがらぬ番頭の取合せに、ただならぬものを察知した。

群太郎は、それから暫く、妙子の枕もとに控えていたが、友造にすすめられて、別室でかなりの酒をあおったものである。

彼の意外な宣言を聞いたとき、妙子は、貝殻のように丸くとじた瞼を瞠ひらいた。そして、その言葉の意味を探るより先に、目の前の群太郎の貌に哀しいものを見てしまった。褥からかなり離れたところに座布団を敷き、襖を背にして座っている彼の貌には、はっとするほどの躊躇と、濃い疲労の翳が見えていた。酒の勢いをかりているにもかかわらず、山頂で精力を費いはたしたことを物語る男の貌に、もう一つ生れ変ったような真摯で悲しいものが泛んでいた。

あ……という呟きが彼女の口から洩れたのは、そうした相手に応えて一瞬に山頂での自分のみじめな姿態を、かき消そうとする羞恥の叫びであったのか、それとも溢れるばかりの礼ごころを、その微妙な呟きのなかに押しとどめてしまったものか。

「若奥さま。」

群太郎は、新しい話の緒に着こうとして、もどかしげに彼女を呼んだ。

「こういう話を、こういうところで申上げていいものかどうか、……でもまあ、今でなければ、永久にお話できないと思いますので……まあ、御気分がよろしいのでしたら、おしまいまで聞いて下され。若しうるさいと思われたら、黙って向うをむいていて下さいよ。……つまらぬ男の身の上話です。」

彼が話しかけようとしていることには、すでに狭山とこの男とのあいだに、事態を起そうとする発端のようなものが感じられる。ながいあいだ持ちあぐねたものを投げ出すように、彼は一気に喋りはじめた。酒の酔いばかりでなく、すでに彼は自分の運命を賭けようとして酔っていたようである。

――ある雪の日、小学校を出たばかりの男が、ある商店の小僧入用と書いたはり紙を見て入ってきたのが縁で、どうにかその店を任されるほど取立てられるようになった。男の父は、能登の貧しい行商人で、死ぬ二年前、金沢に住みついた。詳しい話は省くとして、その父はある日首を縊って死んだ。たった一円の金のために!  貧乏とはそんなものなのだ。たった一円のために首を縊らねばならぬ人間も居る。……その息子は、身にしみた貧乏と孤独のおかげで、ただがむしゃらに働くことだけしか考えなかった。いや、今でもそのことだけしか考えていない男である。三十歳になった今日も女を知らない。女ぎらいで通してきた。……いや、それは嘘だ、大嘘だ。女というものに実は憧れて、憧れてきた。女というものが眩しくて、おそろしくて、滅多に傍へも寄れなかった。劣等感という奴、其奴が逆に自分を驕ぶって見せたり、その上吝で金が惜しくて、女買いなんて思いもよらなかった。

そんな男が生れて初めて恋をした。一目惚れという奴を。……しかしその相手は、ご主人の若奥さまだった。無論、そんな男だから、そのひとに対しても、正反対の態度しかとれなかった。……

「若奥さま、私は、旦那さまから、おせいを取上げてしまいとうございました。せめてそんなことで、若奥さまに対する自分の気持がとどいたと思いたかったんです。あなたさまの苦しんでいらっしゃるのを、じっと見ては居られませなんだ。……しかし若奥さま、そんなにあなたさまは遠いお方ではない――と気づいたのです。今先刻の山の中でのことです。若奥さまを負ぶって山を降りながら、そうと気づきました。私だって、若奥さまと結婚できるのだと。……」

群太郎は自分の口から飛出した言葉に、自分が慌てて、矢継早やに言葉を付足した。

「私は、きっと若奥さまを幸福にして差上げます。何も仰言らず、今はここにお躰の快くなられるまで、かくれていては下さらぬか。……この家の者は、もう私の味方です。手筈は万事考えています。金もかなり貯めています。二人で大阪へ逃げましょう。必ず狭山以上の仕事をしてみせます。……お腹のお子も私の子として育てましょう。……」

彼のながい話は終った。彼はもはや、あの山頂でしたように、妙子を抱きしめようとはしなかったし、その布団の縁にすら、手を触れようとはしなかった。だが、彼の膝は、なにものにも怯むまいとして、硬直した姿勢をとっていたし、眼は白い眼尻がそのまま小刀のように尖って、妙子の顔の上にそそがれていた。

妙子は仰臥したまま一言も応えなかった。この重大で唐突な男の告白に応えるべく、彼女の心身は疲れ傷つき過ぎていたのだ。顔の色は蒼白に近かった。それを察知しながら、彼は、妙子の沈黙に堪えがたいものを感じた。あと二、三分もこの沈黙が続けば、おそらく彼はへたへたと、其処に崩折れるように倒れたかも知れなかった。僅かにうわごとのような妙子の声が、そのとき彼の耳朶を鉦のように打った。

「揺れています。……あの秤が……あのときの秤が揺れてとまりません。」

妙子の眼は放心したようにひらき、天井の一点を瞠めている。良人の国夫と、群太郎を、その秤にかけているのだろうか?  それとも、せいと自分の二人だろうか?  「いや、」と彼女は心のなかで拒む。

「もっともっと、小さなものがかかっています。あれは何でしょうか?  揺れて揺れて、怖うございます。小さいあの秤が、いまに毀れてしまいます……。」

群太郎がぎょっとして、彼女の傍へゆき、その眼を覗き込んだとき、

「……まいります。何処へでもまいります。」

意外にはっきりした妙子の声であった。群太郎はひどく慌てた。期待していたものが与えられた筈であったのに、彼の慌てようはなかった。果してこの美しいひとは正気なのだろうか?このようにたやすく自分の許へ落ちてきていいひとだろうか?  彼はなぜか自分の今喋ったことを、白紙に返したいほどの錯乱と歓びに、慌てふためいたのである。

「ともかくお気をしずめ下され、若奥さま、……私は一ぺん家へ帰ります。一ぺん帰らんことには怪しまれますから。が、絶対家内へは内緒にしときますぞ。さ、静かに臥んで下され。」

上ずった声でそんなに言い、妙子の傍を飛上るようにして放れた彼は、友造夫婦に後事を頼んで、「ちどり」を出た。彼の挙動は落ちつきを失って、哀れなほど粗忽に見えた。貸席を出るなり、彼自身がそれを感じたものである。橋の上で、長靴に溜った水を捨て、暫くじっと佇ちどまっていたのはそのためである。酒の酔いをさましながら、彼は、雪解水のたっぷり増した春の水のもり上るような水面を瞠めて、暫くこれから自分がとるべき処置について考えていた。

しかし、それから間もなく妙子の方は激しい腹痛と出血に見舞われた。山へ逃避行の無理が、ただならぬ躰に障ったものだった。群太郎が去ると同時に、発熱し、蒼白だった顔に火のような熱が上ってきた。流産の徴候であった。慌てた「ちどり」の主人が、群太郎の言葉に逆いて、狭山家に電話で急を告げたのは、この場合、当然の処置と言わねばなるまい。主人から見れば、群太郎は、狭山家の一使用人にすぎず、狭山は先代からの一級顧客である。何より、友造夫婦は、正常な精神を喪った瀕死の若妻を内緒で預る無謀さは持たなかった。万一を慮るまでもなく、彼等は不利と、不義理を一緒に背負い込むようなことはしなかった。群太郎が考えているほど、この土地の人間の義理とか、伝統に対する心のよりどは、底のあさいものではなかった。

群太郎が、狭山に辿りつき、店のガラス戸に手をかけた時、友造からの電話を受けている国夫の声を聞いたのである。

店はこの騒ぎのため、閉じていたし、他の番頭も店員の姿もそこには見えなかった。妻の失踪で、慌てていた国夫は、友造からの意外な情報に、飛上るような大声をあげていた。

「群太郎が!」

と言う国夫の声を耳にしただけで、当の群太郎は、心臓や手足までが、瞬間ばらばらになるのを感じた。妙子、発熱、入院、続けさまに、そんな言葉が国夫の口から飛出している時、群太郎の脚は、戸外に弾き出されていた。そして自分が家人の誰からも見られていなかったと知ると、そのまま軽く躰は弾みをくったボールのように、何の思慮もなく、街を走っていた。

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