第18章  告白する女

せいはその頃から、急にまた躰をわるくしていた。心臓と肝臓の障害がひどくなり、床に就くようになった。原因は誰の眼にも、永年の過労から来たものであるのはあきらかだった。

十二月の初め、新館の改築を心に計画しながら、資金のやりくりに一頓挫をきたした気苦労も手伝って、心臓衰弱で歿った。

歿る前夜、せいは、国夫夫婦を枕もとに招んだ。すでに死相の現われたせいに、床からぴょこんとお辞儀をされ、手招きをされると、妙子の複雑な心のなかは、そこだけ虚をつかれたようにやさしく凹んだ。せいは笑みかけてさえいた。むくみで顔の相の変った彼女の唇のゆるんだ微笑は、最後の好意を見せているようであった。前日から食慾はまったくなくなり、心臓の衰弱も劇しく、やっと呟くような小声で、夫婦に対って言った。

「たった一言、申上げたいことがありますのや……。」

ひょっと、妙子の胸に、あの狭山の火事の一件が泛んだが、果してせいがあのとき放火し、今ここでその告白をしようというのではあるまいか。

だが、せいは、まるで違った話題を持出した。

「旦那さまは、今も商売なさる気持をお持ちですけ?」

む……と、国夫が無表情に顎をひいて考え込んだのは、妙子が訊いたときとおなじだった。しかし彼は眼の前にいる死期の迫った女の真剣な顔にはっと打たれて、つとめて調子を合せて言った。

「あんたのおかげで元気になったのだ。……頑張るとも。」

「ここ、みんな旦那さまのものですからに、頑張って下され。」

せいは、国夫が頷くのを見ると、うれしそうに自分も頷いたが、話というのは、どうやらそれだけではないらしく、間をおいてから、ぽつりとこんなことを言った。

「狭山のあとへ行ってごらんになったけ?」

「うむ、行った。」

「ただ今、日下さんの家になっていることも御承知ですわね?」

彼はまた頷いてみせる。せいの前で、彼は子供のように従順であった。

「わたしは、旦那さまが考えておいでなさるような女ではございません……。」

すると、突然せいは堪えられないようなヒステリックな声を出した。彼女としてはせい一杯の、力をかって、相手に聞かさねばならぬことなのだろう。

「何でも彼でも許すと言っては下さいますな……ただ私は、言うだけ言うて、胸のうちをらくにしておきとうございますのや。」

せいは意外な告白をしたものである。実はこの旅館は、前の経営主から任せられたものではなく、群太郎が、買いとってくれたものであると言うのであった。ある時期、大阪に本宅を持つ彼は、金沢に独りおかれた彼女を、二年ばかり面倒を見てくれたと言うのである。

「おなじような生い立ちの者同志、ひょいとお頼りしたのですわ、その頃、やたらと独り者の自分の行末が心細うてなりませなんだ。……ひょいとお頼りしたのですわ。」

国夫と妙子は、それぞれ魂を引抜かれた者のようにぎょっとしていた。それぞれが、おそろしい面でもかぶった者同志のように、自分を怖れ、相手の気づく筈のない秘密に戦き、鹿爪らしい貌で辺りを窺っていたのである。それぞれがその告白から受けとったものは違っていた筈であるのに、まるで二人はそっくりの貌つきをしていたのである。

「せい……。」

何を思ったものか、国夫はせいの耳許に口をよせ、むかしのように彼女を呼び捨てにして言った。

「せい、……らくになったか?」

「あ、らくになりました。……旦那さま。」

思いきり甘えたせいの貌には、初めてものをねだって与えられた赤ん坊の無心なよろこびが溢れていた。初めて、そして最後に国夫に存分に甘え得た勢いで、「旦那さま、商売を始めて下され……箔屋の旦那になって下され……ここを売って下され。」それは頼むというより、ねだるような言い方であった。新館の改築に気を病んでいた彼女は、今はそれをあきらめてことでほっとしているのでもあり、むしろ国夫を励ますことで、ほんとうの思いが叶えられたにちがいなかった。

そう言えば、せいは、国夫の傍らの妙子には見むきもしなかった。妙子はそれをとっくから気づいていた。女がどたん場に来て見せる意地のようなものに、妙子はあっと心のなかで呟いていた。しかしそれは妙子自身のうちにもあるものであった。せいに対って、いつも涸いていた自分の心、せいのために泣いたという憶い出はひとつもなく、絶えず早魃の夏にめぐりあって、泣くにも泣けない気持で、彷徨いつづけた半生であった。

そのとき、友人のところへでも出かけていたらしい彦一が、元気一杯に外から帰ってきたけはいがした。彼は隣室に入り、直ぐラジオのスイッチをひねった。彼は、せいが、それほどの重態であり、重大な話が持出されているとは知る筈もなかった。

ラジオは天気予報をつたえてきた。今晩は冷え込みがつよく、明朝は初雪が降るかも知れませんと繰返すアナウンサーの平常の声が、ここでは悲しみにかかわりのない人間の身のかるさをつたえていた。彦一さんを呼んで、と言うせいの声をきくまで、妙子は、その天気予報の言葉の世界にほっと呼吸づいていた。

 

それから一ヵ月ほど経って、国夫が歿った。せいの死後、彼は目に見えて衰弱していった。一旦落ちついたかに見えていた結核が、急に悪化したのであるが、現実の妻に冷たく拒まれ、一方では、せいの告白から受けた残酷なショックに挟み撃ちにされて、あっという間もなかった。

朝、雨戸をこじあけている彼に、妙子が気づいたとき、彼はすでに第一回の喀血に見舞われていたのだ。明け方の庭の雪が、真赤に染っているのを妙子は見た。

「食塩水を!」と彼は言い、転がるように妙子が、コップを持ってきたとき、別人のように大きな叱声が、隣室から駆込んだ寝巻姿の彦一を突飛ばしていた。

「あっちへ行け!  うつるぞ!」

そのとき、彼は第二回目の喀血におそわれたのである。それは最初のより多量であった。

彼の口いっぱいに溢れた赤い液汁は、赤いマントをひろげて現われた魔物のように、その喉元を通過したとき、呆っ気なく、あまりに呆っ気なく、呼吸をとめてしまっていた。一旦壁に反り身になって離れた彦一が、再び父の躰を起して見たとき、顔中を血で濡らして、こときれていた。

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