第9章  氷室

鏡とは奇妙なものである。

口には出し得なかった心のうちが臆面もなく写ることがある。いや、心のうちにすら思いもよらなかった怖ろしいものが、写ることすらある。

そんな思いを妙子が経験したのは、それから二ヵ月も経ってからの、ある初夏の日のことである。

工場に続く空地に、せいが丹精した野菜畑が青々と色づいていた。豌豆のうす藤色の花がとれて、小さな瓜のようなさやが生れていたし、胡瓜、トマトもそれぞれ支え棒をあてがってもらって、たくましい彼等の季節に入りかけようとしていた。

浴衣の裾をはしょって、妙子は先刻から、そこにかなりながいあいだ、しゃがんでいた。女学生のころ、絵の好きだった彼女は、写生をする気構えに似たもので、植物の葉や花のこまかな部分を凝視する癖があったが、今、彼女の瞠めているものは、その畑の傍のどくだみの葉の下にうずくまっている一匹の蛇であった。その蛇は、そんな彼女の凝視だけが捉えたとしか思われないひそみ方をしていて、まるで動かなかった。長すぎる、高貴な置き物のように静かでありながら、陰気なたくらみに、腹をねっとりと地べたに密着させて、グロテスクな貌を妙子にむけているのである。

このように厭わしいものを、何故自分はこうしたながい時間をかけて凝視しなければならぬのだろうか、と妙子は思う。

彼女はすっかり健康になっていた。まめまめしいせいの献身の結果という他はなかった。それは、妙子のどのような言い分をも黙って取下げてしまわねばならぬほどの誠実さなのである。それを承知していながら、彼女は、時々せいが途方もなくおそろしい人間のように思えてくる。何処にも入る余地のない夫婦のあいだへ、素面素手で闖入してきて、平然としている女……。

あの時の言葉通り、まさか板土間で、せいを臥かせるわけにはゆかなかった。国夫と妙子の床の裾に、せいの床は小さく敷かれ、妙子が眼をとどかす限り、いつも後ろむきに小さく屈んで眠っていた。ある深夜に、妙子は何の連想からか、ふと、せいが放火したのではないかと思ったことがあったが、それはそれほど不自然な思いつきではなかった。国夫に逢いたさ、狭山の家に住みつきたさの一念から、駅から直ぐ引返してきて、工場に火をつけたのではあるまいか?  せいの寝姿には、ただもう愛する人の傍で眠れるという、それだけで充ちたりた、むしろ童女のようなやすらぎが見えるのだった。可哀想な女!  だが、よく見よ、たった一と間の暮らしの中にさえ、この女はこうして入込んできたではないか、―― 一瞬目を拭って、妙子はその寝姿を瞠めねばならなかったのだ。

……そして、その憤然と憐憫の心をじっと耐えている彼女の鬱々としてたのしまないものが、今その蛇にむかって、ゆっくりとなにかを頒ちあっているようであった。

其処は丁度、工場の直ぐ脇で、窓のま下であった。午食時分で弁当をたべに来た職工の一人が、いきなり茶碗の湯水らしいものを捨てたのが、妙子の頭を超えて飛び散った。無論、工場の方からは、地にうずくまっている妙子の姿は見えないらしく、其処に集ってきた彼等の話声は、機械をとめた気安さから、大きく弾んでいた。

茶碗の水をかけられて、蛇は、逸早く姿を消し、僅かにどくだみの葉が揺れているだけである。彼等の話はひとしきり仕事のことで姦ましかった。

大阪の屏風商東屋兵衛の破格の援助によって、工場は漸く軌道に乗っていた。時もよく、政府の金輸出再禁止を契機とする輸出増強政策に乗って、国夫の予想通り、海外市場を目指す、洋箔、アルミ箔等の製造は空前の勢いで拡げられていた。近々工場の増築も母屋の改築も計画されていたし、学生時代、スポーツの選手だった国夫の、いかにも思いつきそうな職工相手の野球の真似ごとや、弓場、ピンポン台等まで設えるという発展ぶりであった。些細なそうした計画も、彼の経営の理想のひとつであったのだ。しかし今、妙子の耳に入ってくる職工たちのとりとめのない雑談は、決して国夫の意図や好意を汲んだものではなかった。

「何と言うたて、苦労知らずの旦那さまの道楽や。野球に使う金はだいまいですぞ、いっそ銭で皆にまいてくれたらなァ……。」

「はゝゝゝ野球の、ピンポンの、こっちはそういうもんとは縁がないわい。」

そんな話で、妙子を失望させたあと直ぐ、

「とにかく変ってるおひとや、あんな別嬪の若奥さまがありながら、おせいと手が切れんとはネ……。」

「それが、男と女、いうもんや。おせいのあれがな、旦那さまの……。」

みだらな話となると、彼等の笑いはたからかに意気投合した。鋭敏に尖りに尖った妙子の耳は、更に次の意外な言葉を引っかけずにはおかなかった。

「おせいの、腹がでかいの、若奥さまはまだ知らんらしい。……裏の川ぶちで、おせいがしゃがんでゲロ吐いてる。その背中を、旦那さまがさすっていなさるのを見たら、はゝゝゝゝ、えらいことじゃ。」

妙子は、そこまで聞くと、逃げるようにして部屋へ戻ってきた。

どれ一つとして思いがけない言葉はなかった。最初、彼等の世界に、脚はおろか、爪尖すら届いていない国夫や自分を感じている裡、自分はまた良人の世界へ、爪先どころか、対き合う姿勢さえしていないことを知らしめられたのだ。自分に背をむけて、国夫は、せいと対き合っている。一人余計者になりそうなのは自分の方であり、すでに自分は二人の間にはさまれて邪魔者であったのかと思うと、泣くにも泣けない気持であった。自分の臥床のはるか下にせいの孤独の臥床を認め、哀れにも童女のように思い込んでいた自分のあまさにしたたかにやっつけられているのであった。

その時、当のせいが、外から入ってきたのである。

チャブ台に俯伏し、硬ばった姿勢のまま、妙子は、せいを感じ、せいを観察しようとして、眼をほそく横に注いでいた。

メリンスの単衣の袂に、せいは片手を突込み、何やら一杯入っていそうなその袂を抑えるようにして、外の眩しい逆光をガラス戸の隙間に残して、いそいそと入ってきた。

「若奥さま。」

と声だけ妙子にかけておいて、台所へゆき、盆を取出してきた。「若奥さま!」と、何処にいても、まず、こう声をかけて入ってくるのがせいの癖で、妙子の方も、「せい!」と何がなし呼んでみる妙なやりとりが何時からとなくあるのだった。思いなしか、せいはいきいきと、かくし切れないもので弾んでいるように見えた。そんな妙子の観察にあっているのに、せいの方は一向に気をとられないで、チャブ台の向う側に坐り、袂の中を覗き見して言った。

「いいものを貰ってきました。ほれ、ほれ……。」

袂から取出したのは、黄色く熟れた杏の実だった。ころころと、それはおもしろいほど沢山袂からころげ出てきた。

「今日は、若奥さま、氷室でございました。」

「そう……。」

思いがけないことを、せいの口から聞いて、妙子はほっとひと息入れる思いで、まともにせいを見た。

七月一日は、氷室と言って、この町の旧い年中行事のひとつになっていた。昔、前田の殿さまが、江戸の将軍に、この日白山の氷室をひらいて、氷を献上する習いがあったが、この日民家でも一日をくつろいで、特殊な喰べものを喰べて和み合う。餡のない麦饅頭、杏、瓜なます、ふぐ、巻ずし等がご馳走なのだ。殊に女の子のある家では、庭に茣蓙を敷いて、子供が巻ずしをまき、手料理を作って、大人たちに馳走する。夜は夜で、琴や謡曲を娯しむといった風で、昔、政府の圧政を一日だけ忘れようと、庶民の家族同志がしみじみと睦みあう、そんな思いつきのような行事なのである。

妙子も幼時、父母や兄弟たちを相手に、巻ずしを作ったり、琴を弾いたりした思い出を持っていたので、氷室という言葉は、懐かしかった。

二人は対き合って、食事をとった。国夫の留守を、二人はよく姉妹のようにこうして対き合うのであったが、食事のあと、せいはすぐ杏を口にあてた。こころもち蒼い顔色、血というよりは水に近いものが流れていそうな皮膚の色なのである。そして酸っぱい果実に対する食慾、妙子にも身におぼえのあるものであった。今日までそんなせいの容子に気づかずにいた自分の迂闊さがおかしかった。せいは娘々した丸い両掌に杏をはさみころがしころがし拭いては、口に入れた。妙子はそんなせいのしぐさをゆっくりと見ながら言った。

「お前、ここにずっと居たいだろうね?」

はっとした眼つきになったせいを喋らせたくなくて、妙子は慌てて付足した。

「いつか、お前は、私が快くなったら、暇をもろうと言うてでしたが、ここにずっと居た方がいいのではないか……。」

「…………」

言っていて、妙子は自分の顔の血が、さっと退いてゆくような穏やかでないものを感じたが、どうしても、これは自分が言わねばならぬ言葉と信じたのである。

「若奥さま、ほんとでございますけ?  せいは、今日か明日にも、若奥さまからお暇が出るとばっかり思うとりました。」

「なんの、こちらがお世話になるばかりで、……ながながすみませなんだ。」

せいは泣伏した。あまりにもあっけなく、せいの姿勢が崩れたことで、むしろ妙子の方がどきりとした。せいの背の細巾のメリンスの帯は、白い菊の花を、しわだらけに歪めていた。ほっそりとした腰は、胎の中のもう一つの生命のために、弱まっているようにいたいたしかった。

一ヵ月ほど前、二人は初めて一緒に銭湯に行ったのだが、その時、妙子はせいの腰に銅貨大のあざがあるのを見た。肌が白いせいか、そのあざは目立ってみえた。青インクのかたまりが、ふとそこにおちたような、気まぐれなおき方がされて居、そっと手をふれてみたいような魅力を感じた時、妙子は、すでに自分のその手が国夫の手であるかのような言いようのない不可解な甘美な気持に陥っていた。

「せい、旦那さまを、善いおひとと思うてね、……善いおひとよ。お前が離れられん訳が、私にはよくわかります。……」

「業でございます。せいの業でございます。……でも若奥さま、旦那さま以上に若奥さまは善いおひとでございますわに。旦那さま以上に若奥さまが好きなのでございます。お二人のお傍に、せいは一生置いてほしゅうございます。」

俯伏せているせいの項のおくれ毛を見やっていた妙子は泣けなかった。せいと一緒に泣ける善良さも、幸福さも持っていなかったのである。この場合、更に自分がせいをいたわり、せいにやさしくなることでしか、妙子には妻の自分の身のおきどがなかったのである。

ぐっと自分をそこに追い詰め、押しやっている意識に、涙はほど遠いものであった。

「大事にしませ、躰。」

すると、せいは声をあげて泣き出した。

「ここでよい子を産んで下され。」

せいの嗚咽が、子供のような泣きじゃくりにおさまってゆくまで、妙子は、この女の項を見下していた。それは全く見下している気持であった。見苦しいほどに後れ毛を伸ばして、何と幸福そうに泣きじゃくりしていることか。……

「ぼんのくぼが、伸びていますぞ、剃って上げようか……。」

「伸びたことでしょうね、ながく剃ってませんから……むさくるしゅうてすみません。」

せいはいそいそと、石鹸や剃刀を揃えて来、束髪を束ねなおして、襟足をかきあげた。妙子の剃刀を待っているのである。

「ここの美しい人は倖せですと……。」

せいの背後にまわった妙子は、剃刀を手にしてそんなに言い、何故か先刻畑で見たとくだみの葉蔭の、蛇のねっとりと白い腹を思い出していた。せいの項は見れば見るほど白く、ひそかに流れている静脈は、胎に呼吸づいているものがあることを、如実に知らせているように、規則正しく動いていた。

何処を切っても血が流れて出る。ということが、彼女に奇妙な衝動を与えていた。女ともう一つの生命が、その切口から血となってどんどん溢れ出る。自分はそれをじっと眺めているだけでいいのだ。もはや誰の手にもおえなくなる。嫉妬も不安も愛情もそこで熄むにちがいない。……さて何処からでも今自分は切れる。……

妙子自身その時、ひょいと顔を上げて鏡のなかを覗かなかったなら、その瞬間身ぶるいのするようなことが起っていたにちがいなかった。鬼面のようにすさまじい顔をした女が、もう一人の女の項を抑えつけているのだ。同時にその鏡のなかへ入ってきたのは、外出先から帰ってきた国夫の洋服姿であった。国夫の見馴れた顔がひとつ、その鏡のなかへ入ってきたことで、ふしぎに一切がかき消されたのである。

「お帰りなさいませ。」

国夫は果して、このような妻の異様な顔を見たものだろうか。彼は、今度新しく買った舶来の靴が大変気に入ったことを言って、部屋へ上ってきた。いつものように火の気のない長火鉢の前にどっかり坐り、煙草をふかしはじめた。場ちがいのように、せいがくっくっと笑い声をたてて言った。

「いいことしてもろてますでしょう。」

「ほんとにいいことしてもろてるな。」

と国夫は言った。チャブ台の上の杏をとって、むしゃくしゃと、喰べはじめたが、うまいとも、酸っぱいとも言わなかった。

「妙子。」と呼んだのは、何時になく一人放ったらかしにされたさびしさからであろう。

「話があるんだが……。」

「其処で仰言いませ。聞いとります。」

背をむけたまま妙子は返事して、なかなかに良人の傍へゆかなかったが、そそくさと自分一人がその傍へ寄ってゆくことも、かと言って、女二人が共に一人の男に寄りそってゆくことも、今はあさましくかなしかった。何げない良人の傍がこれほど思案にあまった距離となって考えられたことはなかったのだ。

「実はな、この家を建て増そうと思うとる。……六帖二た間ぐらいなら、何とか出来そうだ。」

「…………」

「お母さんもいつまでも田舎に放っておけんしなァ、とにかく悦んでくれ、工場の方もどんどん拡張だ……。」

「そうそう、あなたのお耳に入れておかねばならぬことがございます。先刻も、工場の方で、職工さんが、野球のことや、弓場のことで、あまり嬉しくもない蔭口をきいて居りました。……折角のあなたのお気持など、他人には通じて居りませんからね。……そうそう人悦ばせはおよしなされ!」

「…………」

「他人の心ほど、あてにならぬものはありません。」

怒っているのでも、哭いているのでもなかった。が、彼女は妙に呼吸が忙くかなしさで、この時ことさら大事でもないことを意見がましく喋った。そして職人の子どもが置き忘れてでもいったらしいお手玉を、部屋の隅に見つけると、一心に、手玉唄を唄い、手玉をとり始めた。

と な り か き も ち や い た と さ

ひ と つ も ら い に い っ た と さ

く れ な ん だ と さ

ひ と の こ こ ろ は け ん け ん

け も の で あ っ た と さ……

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