第2章  そのひと

妙子が嫁いできて、一ヵ月目に遭った狭山家の法要とは、――

昭和の初年ごろで、その日はすでに、歳の暮も押し迫った、商家では格別忙しい日であったにもかかわらず、百人近くの客が狭山家先代の一周忌に集まることになっていた。一ヵ月前、一応、若い主人、狭山国夫の結婚の披露に招待された人たちばかりで、美しい白無垢に緋の裲襠をはおった﨟たけた花嫁を見にきた客は、また今度は、一層あでやかな丸まげ姿の妙子を見るためにやってくるといっても言い過ぎではなかった。

それほど、狭山の嫁、妙子の美貌は市の評判であり、先代の一周忌も済まさぬうちに、狭山家で獲得せねばならなかったほど、多くの縁談の持主であったのだ。兄の代になって落ち目になったというものの、砂糖問屋の桐野と言えば、市の長者番付の中ほどに名を連ねている。市の旧い宗教女学校に通っていた頃から、道のどこかで投込まれる鞄のラヴレターに困らされたが、彼女が美貌によって受けた被害の、それが最初のものであったかも知れなかった。

そんな手紙を、嫂や女中がおもしろがって声を出して読むのを、当の妙子は、ひとごとのように隣りの部屋で、着換えをしながら聞いていた。顔を赫らめるでもなく、笑いを振りまくでもなく、せっせと自分の躰からスカートや靴下を剥ぎとっていたが、そんなことで美人意識を与えられるより、不当なものに責められる感じの方がつよかった。自分は何もしていないのに、……実際彼女はまだ何もしていなかったのだ。内気な、もの静かな娘であった。

狭山の方も、そんな妙子を迎えるに適わしい条件をそなえていた。先代は、箔商として、一代で財をなした人である。一年前、脳出血で急死すると、東京の大学に行っていた一人息子の国夫が、在学のまま跡目を継いだが、事実は、母のりつと、番頭の日下群太郎が一切をきりまわしていた。そして地方の新聞は、国夫の卒業を俟って、業界の革新的な少壮実業家として紹介した。その新聞記事を持参して、りつが直接に人力車で、桐野家へ日参した。芸ごとに通う妙子を見て、一目惚れの結果であったが、国夫もやがて、母親とおなじ熱に浮かされたものである。

国夫が、この地方の業界に珍しく学力をそなえた前途有望な青年であり、派手な商売に似合わず、花柳界の出入りもほんの交際程度で、浮いた話ひとつないことが、多くの縁談を斥けて、この結婚を決定させた。

式の前夜、町の往きずりの人々の眼が、まごつくほどの夥しい嫁入道具の油単が、そろいの法被姿の使用人のかざす定紋入りの高張提灯にあかあかと照らされながら続いて、冠婚葬祭に贅をつくすこの町の人々の、格好の話題となった。

謂わば、こんな結構づくめの条件をそなえた花嫁の雰囲気を、人々は、その日もまた思い知らされる訳であった。

朝の七時ごろ、髪結が来て、りつと妙子は、鏡台をならべて、丸まげに結った。

東京の柳屋の丸まげの大型と、鴇色の鹿の子のてがらが、わざわざ、りつの手で、妙子のために取りよせてあった。

先代の二号で、東遊廓きっての三味線の名手と言われる仙女が、菊野と言う若い妓を連れてやってきたのは、二人の髪が、結上った頃である。先代の供養に、「吉原雀」を弾くように、りつに頼まれたものだが、何を感違いしたものか、仙女は、正月用の、紅白の餅花を沢山つけた紅鯛の大ぶりの枝を、菊野の肩にかつがせていた。先代が景気のいいことが好きであっただけに、この女のこうした型破りも、却って座を賑やかにして、りつも上機嫌で、枝にぶさらがった千両箱や、金のえびす様に触り、御法事と正月と一緒に来ましたぞと、早速鴨居に吊るさせた。

仙女は控座敷で、唐津の火桶に煙草をひとしきり埋めていたが、りつの部屋で妙子たちの着付がはじまると、尻かるく起ってきて手伝った。眉も眼も吊上って、顔の造作が生れつき、芸者顔にできているこの年増女は、そのきつい顔の表情を少しもくずさず、若い人々の笑いころげる冗談や猥談をやってのけて、座を浮々とさせる術を心得ていた。

男のように低く錆びついた声も、聞き馴れた者には魅力があった。妙子の喪服の黒塩瀬の帯を、かるがるとしごきながら、

「お姑様、」と、りつに呼びかけた。

「去年の今ごろは、あなた様も、私も泣きました。……泣き泣き、お棺のなかに、私がそっと入れて差上げましたものは、何かとお思いになりますけ?  大旦那さまの大好きな大好きなものを入れて差上げました。……ふゝゝゝゝ枕絵ですが!  枕絵抱えて、三途の川渡るお人さまいうたら、ここの旦那さまぐらいのものですげ。」

すっとぼけて喋る仙女に負けず、りつは、合せ鏡のなかで、こっくりうなずいて、

「ふゝゝ、あんたのやりそうなことや。」

「男らしくて、金づかいのよろしかったこと。」

「…………」

「あとにもさきにもござんせなんだ。立派な旦那さまで……よほどの功徳をつんでゆかれな、わたしもこうして家内へは招んで貰えませんわに……。」

と笑わせたあとで、本妻の機嫌を結ぶことも忘れない。

この家の儀式ばったことに、この種の女は二、三ならず集ったが、先代はなにかというと、派手に芸者を侍らすのが常であったし、りつにとって、先代の死後もおなじように彼女たちを扱っている自分の度量のしめし場所は必要であった。こんなことが、いかにも商売の繁栄を思わせ、店の貫禄ともなった時勢であった。

妙子の着付が終ると、さすがにお喋りの仙女も、はっと口をつぐんで、妙子に見とれねばならなかった。

すでに仏間との襖は外されて、まん中に開いた舞台のような嵌込みの仏壇が燈明に映え、掃除のゆきとどいた座敷にはりめぐらされた幾双もの金屏風と鴨居と言う鴨居、そして天井に至るまで紅殻で塗りつぶされた家全体の朱の色とを背景にして、黒の喪服の妙子が、立っているのである。

まだ初々しい妙子の躰をぴったりと包んだ黒の迫力は、憂いとも婉ともつかぬ妖しい輪郭をつくって、眼や眉の翳りにまで表われていた。そんな陰影の部分のいきいきと動き出すけはいに、仙女は改めて、痛くなるような視線を配って、

「お姑様、」と、また、りつに声をかけた。

「このお人は、喪服の似合う方でございます。……ごらんなさいまし。」

「縁起でもなや、」とりつは言いかけたものの、自分の鏡のなかに入ってくる妙子の美しさだけでは物足りなくて、姿勢をかえて、二人にむきなおった。

「何を着ても、きれいなお人はきれいなわに。」

「ぼんちは何処にいます?」

――仙女は、国夫を、こう幼な名で呼ぶことに誇りのようなものを感じている。

「早う此処へ来て、この別嬪さんを見るもんじゃ。」

当の妙子は、その時になって、初めて口をひらいた。

「旦那さまは、駅へ、大阪のお客を迎えにゆかれましたが……。」

「と言うと、東屋さんが見えますのか。わざわざ。」

仙女も周知の、東屋兵衛は、大阪でも一、二の屏風問屋で、狭山の第一の顧客である。

ひとしきり、老女たちの話は、顧客先の昔話におちたが、りつは、仙女が引具れてきた自慢の雛妓菊野を眼中におかず、妙子の方にすっかり心を奪られているのが、内心してやったりの気持で、ことさら妙子に機嫌よく振舞っていた。妙子がまだ朝食を取りそびれているのを気にして、

「妙さん、お腹の加減はどうなのかえ、いくら美人でも空き腹は困りますぞ、今朝ばっかりは、台所で簡単にすませておくれ。」

妙子は正直なところ、場ちがいの当惑げなものしか感じていなかった。妾がこうした場所へ出入りすることも意外であれば、そんな姑の対し方にも、納得のいかぬものがあるのだった。若い女の潔癖かも知れなかった。ことの善悪という突きつめたものより、それはただ若い嫁の気持を不快にさせる濁った非常識な世界であったのだ。

おそらく今日一日が、こうした人たちに囲まれて、ざわざわと波が押しよせてくるように、落ちつかぬ、慌しい一日にちがいあるまい。

胸のあたりにきつく締めつけられた帯の加減に、はやくもやりきれなくなりながら、その不自由さに通ってくる自分一人の気持に、漸く触れてみたい本心で、妙子は座を起った。

まだ朝の十時頃である。

姑が気をつけてくれた、食事のことなど、念頭になかった。彼女は台所を素通りして、裏庭の方へ何となく足をむけてみたのである。

この狭山の家は、三方が狭山所有の空地となっていて、その空地つづきに、倉庫、細工場、箔工場の別棟があって、工場の裏は、麻ノ川(浅野川)が流れている。曇った悪天候の日は、陰気な川の匂いが工場の方からにおって来、絶えず繰出してくる機械の騒音は憂鬱に神経にひびいてくる。

表の看板に、「金銀箔」とほんものの箔で派手に打出した店舗の華やかさとは、打って変って殺風景な眺めだが、それはそれでこの商品の性格をそのまま現わしたものであった。

工場に住む職人の生活と、店舗の商品となった華麗な箔とは、全く切離されたものとして考えられた。箔は一旦彼等の手を離れると、金屏風や、高級織物や、仏具や、外国向けの高級美術の意匠に嵌込まれて、燦然と奢りに奢り、大衆と絶縁する。

職人の方は機械で打ちまくった箔を、更に家内に持込んで、うつしと称する家族総がかりの実に単調で陰気な手内職としなければならぬ。おそらく彼等の家族の一生は、安い賃金と、この陰気な手内職につきまとわれて終るのだ。

工場から職人が往来する通路は、セメントでかためてあって、かたかたと、日によっては忙しく人の出入りがあり、また日によっては、ひっそり閑としている。

妙子は、何故かそうしたしんとした生活をもっている工場の方に心惹かれていた。姑が、帳場に坐って、一日どうかすると腰を据えている店の空気は、ちょっと覗いただけでも、重苦しかった。

一度下駄をはいて、あのセメントの道の方へ出てみたいと思っていた彼女は、その日、工場が操作を休んでいるのをいいことに、裏木戸をそっとおしてみたのである。

すると、誰もいない筈のそこには、若い、小柄な、見たこともない女が、着物の裾をからげて、裸足で懸命に、漆喰を洗っていたのである。あかく透きとおるような爪尖で、しっかりと、セメントのたたきを踏まえて、女は勢いよく水を流したところだった。水はその爪尖をくぐって、みるからに冷たそうに下水の方へ流れた。

妙子には、何故か、それだけのことが克明な印象で、目に沁みたのである。

「若奥さま(おあねさま)でいらっしゃいますけ?」

その女は、妙子が奇妙に思うほど、おどおどして顔を赫らめ、あわてて着物の裾をおろすと、ていねいに挨拶をした。

「せいと申します。」

やや吊った、さびしい感じのする眼を伏せたきりであった。あわてて履きものにいれた裸足は、濡れて水晶のように光っている。

二、三日前に降った雪が、幾許の残雪となって、その女のうしろに、寒々とした遠景をひろげていた。セメント通路の雪は水を含んで赤茶色に汚れ、工場の屋根の雪も半分は禿げて、寒々とした瓦が見え、かなりな距離をおいて、裸木林が川の縁までつづいている。妙子の奇妙なおどろきが、ふとこの侘しい風景に拉れ出されて、人生的なものとなっていった。嫁いできて、初めて彼女は人生を感じたようにすら思えたのである。

妙子は、前夜、食事のとき、姑のりつと、国夫とが、交わしていた言葉を思い出していた。

「せいを呼んでやっておくれ。」と、たしかにりつが言った。

国夫は、うんと応えて、

「根布の方へ使いをおやり。」と言った。

「うちのこういう時は、もと使っていた者が、全部やってきて手伝いますぞ。」

と、りつが、妙子にむかって説明した。

「お母さんの方の遠縁にあたる家の娘だ。」

と、国夫がまた付足した。

妙子はその時の話の女が、ここにいる女だと気づいた。

それにしても、誰の眼にも触れぬところで、きれい好きらしく、懸命に働いているこの娘は、いったい何者であろうか?

法要は型通りの読経にはじまって、極くありきたりな説教で、午前中に終り、そのあと、仙女らが酒宴をとりもって、賑やかに果てたのは、夜の十時すぎであった。

馴れぬ人々につきあって、気を配ったためか、妙子は、かるい脳貧血に見舞われて、離室に臥かされた。

折から、客人が帰る混雑にまぎれて、女中たちも姿を見せなかった。彼女は一人で臥かされていると、心がやすまった。わずらわしいほどの、姑のちやほやぶりから遁れたためでもあるが、小じんまりした離室に、忘れもののように置き去りにされてみると、自分が、本来の自分にかえってゆくように思われた。かるい暈いの眼をとじたまま、ここ一ヵ月のあいだの身辺のありようを考えると、潮の満干に似たものが感ぜられる。潮の干いたころに良人の国夫がぽっかり浮かび、瞬時にまた、それは満潮にかくされてしまう。夜の時間の、ほんの暫くだけが、良人との逢瀬ででもあるかのような恋しさ、しかしそれは必ずしも新妻めいた情緒の上ばかりではなかった。

国夫が商人くさくなく、何処か学究型の青年であり、いち早く箔の研究や、職人の生活のあり方に心をむけて、そのような話題を心おきなく持出してくれるのが頼もしくもあった。

夥しい箔打職人を抱えてみて、つくづく知らされたことは、彼等の生活の安定のなさだと、国夫は洩らした。夏場は殆ど仕事がなくなるのが常で、彼等はその期間をどしょうを裂いて串焼きにして売るとか、中には博徒になり下る者もいた。巷間、彼等は半分やくざのように言われていたのである。

つい先代の初め頃まで、箔は手で打つものとして、家内工業でしかなかったのが、機械が取入れられるようになり、いくらか、工場とか、職工とか、近代風に呼名も改まり、生産も販売も新しい道が拓けてきたというものの、夏の工場閉鎖だけは何処の箔業者でも、相も変らぬ状態だった。職人の生活は僅かの休業手当以外は、何の保証もされていず、業者は決して損をしないという仕組みについて、国夫は若い雇用主らしい悩みを抱いていた。

そんな彼の考え方は、かつて妙子の周囲に感ずることのなかった人間関係の方向へ結びつこうとするものであり、あの女学校の教室のなかにあった素朴な道徳感に共通するものであったのだ。

りつの大時代めいた商法や、生活様式とは似ても似つかぬことを、国夫も嫁の自分も考えている。そして何時かは夫婦が心を合せてその方向に舵をとるだろうという空想に、とりとめもなく、妙子の思いはひろがっていった。

その時、襖が拓いて、思いがけなく、先刻の、せいという女が入ってきたのだが、妙子の、要心深くうすく開けた眼は、やはり先刻とおなじ克明さで、この女のうしろ姿を捉えていた。女は白いエプロン姿で、妙子に背をむけ、閉め忘れてあった一枚の雨戸をしずかに閉めていた。足許には、彼女が運んできた九谷の湯呑が、湯気をあげて盆の上にあった。

せいは、雨戸を閉め終ってからも、直ぐ妙子の方を見なかった。ゆっくりとうしろ姿を見せて、廊下の電燈を消し、やっと盆を手にして、妙子のそばへ寄ってきた。湯呑のなかから、柚子の香いがたち、透明なくず湯がたっぷりと、この女の体温のようなものをつたえてきた。

「お疲れでございましょう……今日は、朝からでございますものね。」

ぐっと、妙子の褥の傍に寄ってみて、急に親しみが湧いたような、やさしい声であった。

そう言えば、このせいも、一日殆ど目立たないところで、まめまめしく立働いていた筈であったと、妙子は思った。そんなエプロン姿のせいを、厠へゆくときとか、納戸へ行った時とか見た筈である。

一見、小柄で弱々しく見えたのに、間近かに坐ったせいの膝のたかさは、やはり若い女らしく、むっちりとして肉づきはよかった。

眼がほんの少し吊っているが、微笑すると、眼尻が愛らしくくぼむ。清潔ずきらしく、エプロンも殊更白く、さっぱりとしていた。

妙子に、くず湯をすすめながら、

「旦那さまは、東屋さまを送って、駅まで行かれましたげ。東屋さまは温泉行きとか言うて居られましたが、旦那さまは、遅くなっても帰られます。……若奥さまを見て差上げるよう仰言いまして……。」

起きかえって、くず湯をすする妙子は、さりげなく聞いていたが、妙子がせいを見ると、せいは妙子にむけていた視線をはっとした風に外す。その外し方に、妙子はむしろ、せいの奇妙に熱心な凝視を、感じたのである。

「雪になりました……。」

外した眼で、窓のカーテンの隙間を覗き、そんなことを言った。あたりの空気の冷えで、それがわかった。暫くして、せいは出ていった。

何時間経ったものか、妙子はそれからぐっすりと眠った。

深夜で、もう人たちはねしずまっていた。

妙子は厠へたったが、自分の跫音をはばかるようなあたりのしずかさと冷えである。

ふと眼をとめると、深夜の厠の窓が開いていて、牡丹雪が、ゆっくりと降っている。女の手足にも似たなまめかしい雪であった。

すると、そんな連想を、はっとさせるような奇妙な物音がした。直ぐ壁一重の台所を距てた浴室から、湯音にまじって、国夫にちがいない咳ばらいが聞こえてきた。

良人は今頃帰ってきて、一風呂浴びているものにちがいない。気分が恢復して、寝ざめの妙子に、人恋しい瞬間であった。駈けよりたいほど、良人の何げない咳ばらいが恋しかった。だが、その咳ばらいの音とおなじところから、女のしのび泣きが聞えてきたのである。湯の音に

さえぎられて、それと聞きとることはできないが、国夫の声が低くとぎれとぎれに、女の嗚咽も、押し殺すように小さく、まるでこの二つの物音は、ぴったりと重なり、消し合っているのであった。

妙子は、呆然と、そこに佇ちはだかっていたか、その眼は、らんらんと窓にむかってひらかれ、闇空に消える牡丹雪を、ことごとく眼のなかに納め入れて閉じることもしなかった。

無論その女が、せいであったのである。

せいは、その夜も、それからもずっと、実家の根布(ねぶ)の家には帰らなかった。

妙子が脳貧血を起して臥かせられた離室が、せいの居間としてあてがわれ、ある夜は、国夫がそこに行くとしても、誰も怪しむ者はなかった。

女中として、初めて狭山の家にきた一年前に、せいはすでに国夫と結ばれていた。彼女は、実父母ともに生別して、祖父母に育てられたが、その祖父も歿り、その遺言状を持って、市の近郊の根布から、遠縁にあたるりつを頼ってやってくると同時に、女中として住みついたものである。

「妙さん……あんたには言訳の仕様もないんだが……。」

法要の翌日、打沈んでただごとではない妙子の顔色を見て、国夫は言った。

「あれとは、ほんとにこんなつもりじゃなかった。たった一度のあやまち。と言ったら、男の勝手だと思われるだろう。……弁解はすまい。」

と言っておいて、根布へ何度帰しても、やってきてはまた住みつく。哀れな身頼りのない、女の身の上を喋る。

「女中でもいい、なんて言われるとね、……つい、どうしていいかわからなくなる。無論、僕がわるいんだ。……しかしああいう気持の女だから、変な真似をしないとも限らない。そのうち言って聞かせて、きっと返すから……。」

おずおずと、許しを乞う国夫の顔には、どこにも狡猾なかげは見られなかった。それどころか、

「無論、僕の気持は、妙さん一人にかかっている。まあ、僕を信じてもろうよりほか、今はどうにも解決がつかない。……そのうち必ず根布へ帰してしまう。」と言われてみると、妙子は、良人の日頃の嘘の言えない性質を知っているだけに、入念な「帰す」という言葉を、そのまま受取って、

「あなたがそのお気持なら、今は何も言いますまい。」と言ってしまった。

彼女には、あの裏庭の木戸をおしたとき、初めてみたせいの、ひたぶるに努めていた掃除姿が、何故かそのときも、哀れに克明に思い出されたのである。そしてまた国夫も、自分すらも、この女を対等においていないということが、そんな寛大な言葉となって出たのである。

しかし、国夫はともかくとして、姑のりつの考えは、決して妙子が考えているようなあまいものではなかった。

せいを同居させることに反対しないばかりか、考えようによっては、すべてが、りつのさしがねと思われぬ節もないではなかった。

わるくとれば、国夫の結婚話がまとまるまで、暫時、せいの身柄をかくしておき、漸く妙子が落ちついたところで、再び呼びよせたという風にも思える。法事の前夜の例の二人の会話がそれととれたのである。

妙子に対って、りつはこんな風に言った。

「あんたは、まだ世間に疎いようですね。どっちみち浮気をされるのなら、わたしはあんな娘でよかったと思うていますげ。これが色街の女で見まし、威張ったものですぞ。第一それに、金がかかってたまったもんじゃありません。国夫は、決してそれだけはしないですからに……。」

先代が芸者を囲って、身代をばらまいた不経済さが、この姑のあたまに、今も尚こびりついているのであった。折角築いた富を、息子の芸者遊びで散在されてはたまらないという、たったそれだけの理由が、りつの生き方の全部のようである。

「それにせいは働きものでね……どの女中よりも、わたしたちの気に入っていますのや。あんたも気がねせんと、用事をさせまし。あんたの美しいのには、あれもびっくりしていますぞい。」

妙子は、最後のこの言葉を聞くと、ぞっと身慄いのようなものを感じて、居間に遁げてきた。そして呟いていた。

「わたしは、あの法事の夜、あの二人のために揃えられた夜具に入って、あの女の部屋で臥み、あの二人のために用意された茶道具で、くず湯を飲み、あの女の介抱をうけて、――それにしてもまるで、娘のころのようないい気持で、空想にふけっていたものだ……。」

水芦光子さん原作『雪の喪章』 全文掲載