第11章  凄惨な団欒

りつが、能登の姉の家から駈けつけたのは、その夜であった。りつは、ずっと同居していたわけではなかった。身内とは言え、よその家に居つく気兼ねや気づかいは、りつの性格では続くものではなかった。一年余りで貯金を使い果すと、その家での彼女の位置は急に置き換えられ、喧嘩別れのようにして、りつは、国夫の家へ帰ってきた。無論、国夫も妙子も悦んで母を迎えた。京太や、彦一が生れ、意外に事業も順調な容子に、一応りつは満足していた。しかし孫の守りだけに満足するような祖母らしいひとではなく、かと言って、かつての支配者としての位置はなく、あとから入ってきた隠居さまに過ぎないのであった。

四、五年前と家の配列は逆転していた。充たされぬものを爆発させまいと、重苦しい自分の気持に責められるように、りつはそれでも髪結できちんと小さな丸まげに結い、荷物をまとめて、決して歓迎されなかった筈の、能登の家へ、何かの錯覚が起きたように出かけて行った。国夫も妙子もとめなかった。母がまた帰ってくることがわかっていたからである。

「お母さんの気の済むようにして貰いなさい。姉妹同士はそれでまたよいものよ……。」

「いっそ何処か団体旅行にでもゆかれたらと思いますが……。」

「倦いてはまた思い出し、結構たのしんで居なさる。……金さえあれば、何処にいてもよいものだ。」

そう言う彼は、老人には過分の小遣を、母に持たせることも忘れなかった。事実りつは三月ほどするとまた帰ってくるのだった。そして、その度少しずつ老いの影が深くなっていった。旧い商家のしきたりや、夥しい調度や、人の出入りに囲まれて、りつはこれまで矍鑠として生活の根をはらせていたのであったが、それらを失くした彼女は、もはや一介の老婆であり、あきらめに似た境地から目立って、妙子にもやさしくなっていったのだ。

京太の死も、悲しいと言えば悲しく、あまり自分になつかなかったこの孫の、かぼそい亡骸に、老少不定の念が先立つらしかった。

何より、りつは、この亡骸に取りすがって狂乱している国夫とせいの姿に、目を背けたいほどの、業苦の図を見たのである。

妙子も亦、つらい傍観者の一人であった。

京太が、自分の息子の彦一の薬を取りに行ってくれてのこの災難は、何としても、堪えがたい痛恨事であった。

京太を窒息させた雪塊の巨きさや、屋根から落下してくるその速力を、まざまざと感ずることで、漸っとこの事件と対き合えそうなのであった。そしてそれ以上に、彼女の気持は入込もうとはしなかった。

号泣と言う言葉がそのまま当てはまる国夫とせいの涙。そしてその二人に代る代る抱かれている亡骸の京太。

妙子は自分がその愁嘆の場に入るべからざる人間と感ぜずには居られなかった。今こそこの親子三人の、何者にも妨げられない、靭くて美しい玻璃の中に閉じこもった世界を見せつけられていた。それはたしかに凄惨な地獄図絵でありながら、ひょいと妙子には愛しい団欒の光景のようにも見えたのである。

妙子のどのような涙も、彼等のその涙に混ったら、それと見分けられたにちがいない。彼女のどのようなしぐさも、この場の二人にうとましく嫌厭されたにちがいなかったのである。

生きている子に語りかけるように、この両親は、次から次へと、思い出話を受け継いで語ったが、大阪へ国夫が連れていった話になると、彼は、妙子の方にむいて言った。

「妙さん、あんたが買ってやったあの大きな帽子、実は、あれが気に入らなくて汽車が動き出すまではかぶっていたが、あんたが見えなくなると、ぷいと脱いでほうり出したきり、それっきり、どんなに僕が叱ってもかぶらなかった。……せいが買ったのなら、大きくて、イヤだとその場で言うたものを、よく弁えていましたよ。」

「おとなしいようで、強情で、何処までも旦那さまにそっくりでございましたがに……。」

と、せいが言った。

京太は本当に、あの帽子が気に入らなくてそうしたものだろうか?

若奥さまという、母親とは別のもう一人の女のひと。母親よりえらくて、そして父親とも仲のよいひと。彦一の母であって、自分には母でないひと、そのような一つ家の家族の関わりようを、この児はどのように解釈していたであろうか?  誰よりも低い位置にいて、はいはいと用事をして歩く自分の母親を、どんなにこの児はかなしんでいたであろうか。自分から父親を奪り、口先ひとつで、母親を使いに出す妙子という女を、この児はきっと腹の底で憎んでいたにちがいない。そんな反感を、この帽子にこめて、ぷいと脱ぎ捨てたものではなかろうか?

そのような京太の心の哀れさ、りりしさを思うと、初めて妙子は異様な悲しみにおそわれ、独り、声をあげて哭き出していたのである。

 

東屋の長距離電話は、翌日の朝になって、かかってきた。地金使用制限令による不景気の襲来は大阪もおなじことで、「米より繭より一番先にいかれますので、怖うおます。」という東屋の開口一番の愚痴は、真に迫っていた。こうなれば、眼前の不況に自分の店を保ちこたえるだけがせい一杯で、狭山を助けては共倒れになるというのである。しかし、国夫が店を閉じて、大阪へ来るというのなら、一家の生活は、何とか面倒を見ようというのであった。

京太の初七日が過ぎると、国夫は、妙子とりつ、せいを集めて、今後の方針について相談した。彼の腹はすでに決まっていた。

東屋の言葉どおり、工場や店を整理して、職人たちの落ちつく先を見届けてから、一家をあげて上阪し、自分は東屋のもとに一店員として勤め、暫く情勢を見るつもりであった。

「きっとまた、帰って来て、一旗挙げる。」

と彼は繰返し言った。

「残念なことでした、これまで、大阪の東屋、金沢の狭山と言われてきましたものを……。」

りつは愚痴めいたことを言ったが、大阪行きに反対はしなかった。

「せいはどうするか?」

と、国夫が言ったのは、その時妙子の横にいたせいが、この重大な話を聞いているのか、いないのか、まるで放心したように、ただ国夫の顔を見ていたからである。

彼女は、この七日ばかりのあいだに、まるで別人のようにやせ衰えていた。子を失った母親の涙とは、こうもひまなく流れるものかと思うほど、彼女は泣き、躰の水分がそのため渇上ったとしか思えないほどの消耗ぶりであった。大事な話、と、妙子たちが心を入れているだけに、せいの錯乱ぶりは哀れで、

「せい、わかっているのか?」

言葉は荒々しいが、国夫はたまらない気持で、せいの膝を小突いていた。はい、とせいは答え、くぼんだ眼を、それでもできるだけ愛想よく人々にむけて言った。

「私は参りませぬ……。」

「どうしてだ?」

するとせいは、案外しっかりとした語調で言った。

「業でございます。今度のことはみな、私が受けねばならぬ業でございます……こんなにお仲のよい御夫婦の仲へ入り込もうとした私の罰でございます。……その罰を、あの子が一人背負って逝ったのでございます。あの子が、私に教えて逝ったのでございます。これ以上、私はお供して行きとうはございません。」

せいは、突然に雨水が溢れおちてくるような激しさで泣き出していた。

「何を馬鹿を言う。ここで一人、どうして喰べてゆくつもりだ!」

国夫は怒って言ったが、彼の眼に、すでにせいが家族の列から落伍して、精神異常の一歩手前のところを浮遊しはじめた女としてうつっていた。

「誰も今更、お前を見放すものは居らんよ。気をしっかり持ってくれ!」

すると妙子も傍にいるせいの肩を揺ぶって、良人の言葉に合せた。

「ここまで来て、そんな気弱なことを言ってどうします。よっく考えなさいよ。あんたはここで一人ぽっちになるのよ!」

「そうだ、ほんとうに一人きりだぞ、せい、わかるかね?」

「ありがとうございます。ですが、もう私の言う通りにさせて下さいまし。」

せいは意外なほど頑くなに夫婦の言葉を拒んでゆずらなかった。彼女の友だちが、駅前の旅館に奉公しているので、其処で自分も一緒に勤めたいのだと言うのである。

「ここに居て、京太のことを考えてやりとうございます。ここに居れば、盆暮の墓参りもしてやれます。……今までのことは何もなかったことと思うて、暮らしてまいりますゆえ……。」

せいは、国夫、りつ、妙子の名を呼び、一人々々にていねいに頭をさげて、礼を言った。

「いろいろこれまでにやさしく可愛がって下さいました。京太も存分に可愛がってもらいました。何も心残りのことはございません。

本心かららしい笑顔もみせて、挨拶されると、国夫たちも強って、せいを一緒に連れてゆくとは言えなかった。決して彼等が発ってゆく大阪の今後の生活が、明るく見通しのつくものではなかったからである。

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