第17章  二つのあいびき

妙子は、せいに内緒で、市内の貸間を探して出歩くようになり、病院通いの国夫と、外であいびきするようになった。

国夫の疾患は、目に見えて快くなり、月に二度、大学病院へ出かけてゆくのだが、公園の、図書館裏の、ひっそりと冷えた叢に佇って、夫婦はどちらかを待ちあった。

せいは以前とは打って変って、国夫に対してよそよそしい。その反面、以前にもまして気をつかい、狭山一家の面倒を見てくれている。現に、国夫の躰がみるみる恢復してきたのも、ここでの生活で、充分安静と、栄養が得られたからに他ならない。国夫の外出のたび、新しい下駄が用意されてあった。その履きものは、旅の客が買ってそのまま忘れていったものらしく、少々泥がついて居るだけで殆ど新しかった。勝手の下駄箱にはその種の履きものが、かなりしまい込んであり、有合せと言えばそんなものであったが、そんな履きものを、国夫のためにいそいそと取出してきて、泥をおとしているせいの手許は、まめやかで、何となく愉しそうに見えた。

国夫が出てゆき、それから一時間ほどして出てゆく妙子を、せいはまた丁寧に見送るのである。国夫には、ただ目礼して玄関で見送るせいが、妙子には、何ということもなく従いてきて、「くすもと」と書いた看板の門の外まで出、時にはずっと塀にそって、一丁程従いてくることがある。そのとき、妙子はかなしかった。うすく刷いたばかりの自分の化粧の顔を意識し、たった今、出ていったばかりの国夫に逢いにゆく自分に、ひそかに時節外れの珍味を喰べにゆく遊び人の奢りがあった。そして、白日という言葉そのままの秋の午下りの乾いた外気が、そのような彼女のこころと酷似しているための感傷を味わっていた。空のどこかで、かたく緊きしまってゆく大気があり、そのような高みから、はらはらと落葉が降ってくる。三帖の国夫の病室の窓たかく掩っていた大欅や、楠、楓、枇杷の落葉が、塀にそって散り敷く道を、せいがふだん着のモンペ姿で、いそいそと従いてくる。せいの顔は恍惚とさえしていた。そしてこんなことを言う。

「今朝、あんなにきれいに若奥さまに掃いて頂いたのに、もうこんなに散って……若奥さまがあんまりよく働きなさるので。」

この一言をつけ加えたくて、せいは従いてくるのであった。

妙子は実際よく手伝った。せいのやさしいもの、悲しいもの、そして甲斐々々しい実力には、よほど真剣なもので対ってゆかねば、潰えそうになる自分があったからである。それが、彼女を働かせ、今はまったく主客顚倒した立場にあるせいの眼に、へり下った所作に見えたとしても、妙子にとっては、自分をまもりたくてする矜持のようなものであったのだ。だが、どんなに早く妙子が起きても、せいはそれより早く起きていて、薪を割ったり、草をむしったり、庭の隅に穴を掘って、芥の始末をしたりしているのである。そんなときのせいは、いかにも独り身の女らしく、にこりともしないで、せかせかと躰を動かしている。もっと早く妙子が起きたとき、自分の居間で写経に余念のないせいを見たことがあった。まだほの暗い暁方で、せいは居間の襖を開けたまま、机にむかっていた。質素な戦時下らしい木製の仏壇に燈明があげられ、せいはうしろ向きになって経文を写していた。

流転三界中  恩愛不能断

棄恩入無為  真実報恩者……

せいは、妙子たちに対って、まだ一度も亡き京太のことを口にしていないのだった。

朝早く起き、妙子が「くすもと」の内外を掃いて落葉焚きをする癖がついたのは、その頃からであった。妙子はその愉しみを、送って出たせいに告げ、季節がはや秋の闌にうつったことを言った。

「評判なんでございます。あの庭掃除したり、廊下拭きをしている美しいひとは、いったい『くすもと』の何びとでしょうと……。」

せいは声をたててうれしそうに笑った。そしてそれ以上従いて来なかった。

「行っていらっしゃいまし。」

と言うせいの丁寧な辞儀を背後に、妙子は殆ど前方のみを瞠めて歩いていった。はからずも、女二人のそのような善意にみちた瞬間にすら、遠い過去からの塵埃のようなたたかいが感ぜられ、漸く「背後に取残された者がいる。」という意識をもった。せいはそのように引離された位置で、微笑しながら、妙子を見送って佇っていたのである。

図書館裏の芝生も落葉でうずまっていた。一日中陽の翳った建物裏の木々の黄葉は、濃厚なポマードのように足許に溶けていて、奇妙に夫婦の褥のなかの匂いとよく似たものを漂わせていた。そしてそのためか、夫婦はそこで何となく緊密に、もの悲しく寄り添っているのだった。国夫は、ほっとした風に頬を柔らげ、旅館のなかでは見せたことのない気安さで、「貸間はあったか?」と訊くのだった。そして、妙子の返事など考慮するでもなく、彼女をすっぽりと、自分の胸に抱きよせてしまう。

「三人で暮らしたいな。」と言う言葉も、いかにも弱音を吐いている感じで、妻の共感をよんだ。見る間にこの市は、他県からの疎開者で、身動きできぬほどの混雑を極めていて、貸間など思いもよらなかった。その上、今ではもはや夫婦だけの力では、魚一匹手に入らないほど、心細い食糧難が到来していた。国夫たちのそんな心境を知ってか、知らずてか、せいは脇目もふらず、懸命に食料を手に入れて、狭山一家を養っているのである。

この芝生に立って、妙子は、国夫から、岩永の秀の戦死を聞いた。秀の戦死は、輸送船の沈没という、まことに呆っ気ないものであった。それを告げる国夫の表情も、呆っ気ないほど、他人ごとを喋る無気力なものであった。しかし、そう言えば、妙子の実家でも、兄が出征し、弟も亦海軍を志願し、殆どの成年男子の動員の消息しか聞かされない昨今では、肉親すら、次第に戦争の深刻な動きのなかの、取返す術もないところの人事の感があったのだ。

 

国夫が言い出したことで、二人は、麻ノ川へ脚をのばし、もとの狭山の家の前まで行ったことがあった。

実は、妙子は疎開して直ぐ、ここへ来てみたことがある。それは、大阪へ来て直ぐ、天王寺の施療院へ出かけたときのあの心理と似ていた。無論、群太郎の消息を探るためであったが、果して彼の言葉どおり、狭山の跡は、あれからさる羽二重商の手にうつり、そして今は彼の所有になっていた。ひっそり閑とした倉庫に変り、じかに日下の名が出ていないことをたしかめていたので、国夫には一緒に従いてきたものである。だが、国夫はすでに知っていた。

「群太郎がたいへんえらくなって、此処を買い取ったということだが……。」

国夫は、例の穏やかな言い方をしたが、落胆の容子はかくしようもなかった。

「だが、これではまるで幽霊屋敷のようなさびれ方だな。」

「ここに居ないのではありませんか。」

「なにせ、陸軍の荷を動かしては、儲けているそうだ。」

妻を、つと放れて、国夫は、家の前の電柱のそばに寄ってゆき、群太郎に対する嫌厭を、無言で、電柱の根に大きな痰を落す動作のなかにはっきりとしめした。主人である自分から、妻やせいを奪おうとした男が、今度は家や工場を奪ってしまったのだ。

「ここをなんとか取戻して、商売を始める方法はないものかしら?」

妙子は、良人が戦争から帰ってきて以来、病気とはいえ、ふっつり箔のことを言わなくなっていることに、ひどく不満を感じていた際でもあったので、こう聞いた。

「此処をな。」

「戦争が済めば、きっとあの男は此処へ帰って、箔を始めます。」

「あの男らしい。」

と国夫は嘲笑するように言い捨てた。そして、妙子をがっかりさせる吐息を吐いてから、

「あの男と競争する気は毛頭ない。」

と言った。

「僕は、ほんとうは働くのが厭になったんだ。」

戦場で、ぱたぱたと戦友が死ぬのを見て、ひょいと人間の努力とか、希望というものが、馬鹿々々しくなったのだ、と彼は言った。

「おそらくこれは、僕だけのくだらん思いだろうが――僕は戦友の屍骸を見ては、愚にもつかぬことばかり考えていた。其奴が盲腸の手術の痕があるとね、どんなに抜糸の時は悦んでいたろうにとか、するとまた、子供の時、蝕歯の痛みを怺えて勉強していたことまで、ぼんやりと空想していたもんだ……其奴の生涯貯めこんだ欲望とか、努力とか、無駄だったものばかりを、ね。」

そして、そう語る彼のやせたうしろ姿には、永年軍隊で沁込んだ、癖のあるいかつい軍人の挙動が出来ていた。彼が今尚軍隊に圧倒されていることを、それこそむき出しにしてみせているのである。妙子は彼の話より、そうした彼の恰好の方に哀れを覚えて、寄り添っていった。

「妙さん、……はじめてあなたを見たとき。」

すると、何を思ったものか、国夫は急に青年のようなやさしい顔になって言った。言葉はそれっきり途切れた。あなたが美しすぎたのだ、と彼は言い継ごうとしたものか、それとも、自分の欲望ということを口にしたかったものだろうか。しかし彼の顔はあくまでやさしく、それほど劇しい心の痛みや、悔恨のようなものはなかった。ただ何となく、大義そうであった。彼を蝕んでいる病菌が、意外にその日焼けした血色のよい顔の一歩手前まで喰込んでいて、すでに体力を失っていることに、彼女は気づかなかった。彼女はただ、失意のひとの、妙にかなしく、やさしいような言葉に打たれたようになっていた。

「所詮あなたは、商人でも、軍人でもないおひとなのよ。」

私が初めてあなたを見たときのことを言いましょうか、と妙子は言い、学校の教室で残してきたものが匂っていて、それがたまらなかったの。級長さんの匂いだった。と無邪気に、そして何処か彼を真似たやさしさで言った。

近道をするために、ある神社の境内をよぎろうとしたとき、二人は、その神社の石段に腰をおろして憩んでいるせいの姿を見た。

せいが久留米絣のよそゆきのモンペを着、蒼白な顔をして、ちぢこまったような姿勢でしゃがみ、苦しそうに呼吸をしているのだった。

「どうしたのだ?」と、国夫は、つかつかと寄っていって訊いた。

「少し気分がわるうなりまして……。」

せいは額にまで冷汗を泛べながら、二人を眩しそうに見た。思いがけない二人の出現に、ちょっと表情を変えたのが、一層苦しげに見えた。

「ひどい汗!」

妙子の傍に寄って、持っていたハンカチでせいの額を拭いて言った。。

「大丈夫ですか」?

「すぐおさまりますげ、心臓がわるいものですから、時々こういうことになります。」

「あんまり働きすぎるんじゃないか……暫くがまんなさい。」と国夫は情のこもった声をかけ、タクシーを探しに姿を消した。妙子はせいの手を把ってやり、盲目のように眼をとじている彼女を、まじまじと見ながら、

「今、気がつきましたけど、むくんでいなさるのね。せいさんは肥られたのとちがう。……」

「そうです、むくんでいますのや。……でもどうやら治まります。……少し動悸がはげしいだけで……。」

せいは病気の苦しさより、妙子と国夫が肩をよせて歩いてきたことに、なにかまた別のショックを受けたようであった。涙が眼のなかにたまり、それすら病気と見せていたい気持が、妙子によくわかるのであった。

三十分ほどして、国夫がタクシーを連れてきたときは、せいの動機はおさまっていた。そして二人のあいだにはさまって、昔のように無邪気な、酔ったようなはにかみの色を見せた。

「何処へ出かけたんだ?」と国夫が訊いた。

せいの持っていた小さな袱紗から、印鑑が転げおち、それを拾ってやりながらであった。やさしいが、少しとがめるような、以前の主人らしい声であった。

せいは、市役所へ行った帰りだとこたえた。隣家が田舎へ引込むことになったので、そのあとを安くゆずってもらうこととし、その手続きをしにきた帰りだと言った。隣家はかなり大きな紙屋であったが、今は店をとじていた。

「幾ら位でゆずったかな。」

傍にいて何となく訊き過せない話であった。

「捨値でございます。でもこの際、少々無理しても買うておかねば……土地が二百坪ありますからに……。」

「大した才覚だな。……今の僕らに思いも及ばんことや。」

「どうして、旦那さま。」

せいは唇に手をあてて低く笑ったが、それは急に旅館のおかみにかえった顔であった。

「ほゝゝゝゝ、わたしのような境遇の者には、せめてのことではございませんけ?」

女が一人で生きるせい一杯の抵抗を、せいはそう口に出したものらしかった。

せいはまた元通り、元気で立働くようになった。

街にも漸く疎開騒ぎが起り、駅前でピアノを百円で売りに出ているという噂もあった。せいが捨値で買った隣家は、当分そのまま空家で保つより他なく、せいにとってもやや思惑外れであったが、終戦は、それから二ヵ月してやってきた。

全市の燈火管制が解かれた夜、妙子に忘れることのできないことが起きた。

久しく見ることのなかった電燈の、むき出しにされたまるまるとした光りを仰ぐよろこびに、妙子は最初から憑かれていたものかも知れなかった。

その日は一日、せいが隣家の普請のことで下検分に出たり入ったりしていて家をあけていた。終戦の日、「燃えなかった。燃えなかった。」と自分の町、自分の旅館の燃えなかったことを涙を流して悦んだせいは、観光都市としての金沢を早くも感知して、新しい旅館の経営に躍起になっていたのだ。良人も彦一も夕方になって散歩にでも出かけたものか姿を見せなかった。

妙子は一つ一つの部屋のスイッチをひねって歩き、ぱっと電燈がともれるのを見とどけて、「今日から点けてよろしいのですと。何卒明るくして下さい。」と居間の人に告げて歩いた。おおと言う歓声が、その都度、部屋のなかでし、次々と応答して歩くうち、大げさに言えば、妙子は、平和がきた!  というよろこびに心を弾ませていた。あとから考えるとき、このような行為からして、自分らしくなく、軽卒の味を噛みしめる思いがする。二階の奥にただひとつ取残された目立たない小部屋があり、ふだんからあまり使われていないその部屋のスイッチをひねった彼女は、何の考えもなく、戸を曳き開けたのである。

この時、電燈が、なんの躊躇もなく点き、戸が容易に開いた偶然も、すべて彼女の軽卒に加担して仕組まれた芝居のようであった。

其処には、思いもよらぬ生きものが棲息していたのである。彼女が目撃した、まさしく二つの生きものは、良人とせいそっくりの貌をして絡みあっていた。――そんな感じでしか、妙子は事態を見究めることが出来なかった。国夫とせいの絡みあった躰が、一瞬の明るみに突出されて、そのまま動きを失い、みにくく屍のように硬直して、彼女の目の前にあったのだ。直ぐにスイッチを切り、元の闇にかえすと、妙子は幽霊のような恰好で歩いていった。

「見た。」と呟き、「見てしまった。」と口にし、被害者である自分が逆に加害者であるような奇妙な混乱のために暫く批判めいた気持になることすら出来なかった。

妙子の躰が、国夫に対って閉されたのは、そのときからである。以前おなじ原因で夢香山に遁げた彼女は、今は自分の裡にむかって遁げ込んだのだ。そのときかぎり、彼女の白く美しい躰、肉の肉ともいうべきやさしい部分が、良人に対って抗議する代りに、頑くなに閉されてしまった。

彼女は、自分がそれほど憤っているとは思わなかった。何時かは其処へ陥ち込む国夫とせいの姿を、ただ自分が自分に都合よく忘れていたのであった。そして愚かな眼が、それを目撃したというだけのことであった。かつてせいを哀れむ自分の心の罠に、自分が陥ちていたという経験を、ここで最も手痛くきびしく繰返して、受けたに過ぎないのであった。

金沢観光の楽しさをご紹介するサイトです
金沢を観光してみたいかも

水芦光子さん原作『雪の喪章』 全文掲載