第5章  谺(こだま)

暁方、妙子の失踪が、狭山の人々をおどろかせた。実家へは、直ぐ電話で、連絡がとられたが、無論帰ってはいなかった。

未明の四時頃、二階の寝室から抜けて、裏木戸をあけ、川縁づたいに、足袋のまま飛出した妙子は、半狂乱の寝間着姿で市の東郊にある夢香山へ登っていったのだ。御召の寝間着の上に半天をひっかけ、髪は毛糸のショールで包んでいたが、凛冽な寒気への感覚はなかった。人界から隔絶されたところへ、一気に駈上ってゆかねば、心身のおきどころがない、切迫つまった気持だった。それは「死」を意味するものでありながら、彼女はそれにすら気づかずに、山道をひた駈けりに駈けていった。

※夢香山(ひがし茶屋街の後方にある卯辰山のこと。別名むこうやま。標高141m)

朝夕の遠景に眺めていたその山は、晴れた日はまことに早春のほの明るさに照り輝いた眺めであったのに、今、彼女の右と左に擦れちがってゆく山路の嶮しさは、硬い根雪に掩われたとげとげしい径であり、ながながと臥そべる陰惨なけだもののように涯てしがなかった。足袋の尖に血がにじみ、その一点を凝視する妙子の眼は、炎を瞠めているように恍惚としているのだ。一種甘美な、無感なものに憑かれて、かるがると前進している。心の裡にある苦しみと、躰が受ける苦痛は、擦れちがい、相殺してゆく同じ量に支えられて、むしろ快かった。きりきりと足の爪尖に疼く痛みや、躰中をめぐる悪寒の激しさに、良人や、りつや、せいが磨滅してゆくのである。一時間ほども経った頃、彼女は、頂上の雪中に、俯伏せになったまま倒れていた。彼女には、地の底に吸込まれてゆく意識が、あるだけだった。地の底に何者かがいる。何者かが自分を呼んでいる。そのため時々、はっとして、彼女はそれに応えようとして甦きかえらねばならなかった。そしてその頃、実際に、谷底で、「若奥さまァ!」と呼んでいる者があったのだ。黒マントに長靴姿の群太郎が、谷底を駈上り、熊笹をかきわけて、鳥のような恰好で現われたのは、あたりが白々と明るくなった頃である。おそらく、雪道に残された彼女の足跡を追ってやってきたものであろう。狭山の家では、使用人を総動員して、心当りの所々方々に彼女の行方を求めているにちがいなかった。

群太郎の眼に、俯伏せになって倒れている妙子は、屍体にしか見えなかった。彼は慌てるよりも、怒っている男の動作で、彼女に飛びついていった。そして激しく叱咤した。

「死ぬな、死んで下さるな!」

マントを脱ぎ、素早く妙子の躰を包んだ。濡れた足袋を脱がせ、蹠を摩擦した。顔の泥を拭った。これらの動作は、すさまじいほどの奇妙な速力を持っていて、それはなにか突然、愛に関わりのある場面となってゆくほどののっびきならぬものを感じさせた。

「死ぬな、死んで下さるな!」

彼の叱咤は執拗く繰返され、うすく眼をあけた妙子が喉にためていた呼吸を吐き出して、ぐったりと彼の腕にもたれると、その躰を激しく揺り、胸をはだけ、自分の額をくっつけ、血の通ってきた温みをたしかめた。

「よかった。よかった。」

歓喜して吐く息は、白く濛々として仰々しく、漸く彼にあたりのものへ気を配らせる余裕を与えていた。

ありがたいことに、一面羅のような陽が射しかかっていた。空気が少しずつ緊張を解きはじめ、朝の風を運んできた。風が、樹々の高いところをわたってゆくらしく、梢のほそい尖々が、雪を払って、ピンピンと立上っていった。黒い小さな鳥が、そんな繁みのなかから慌てて飛去った。山の平穏な一日が始まろうとして、それらはすでに動き出したのである。その時になって、彼は、自分が、ひどく汗をかいているのに気がついた。そしてその汗がつめたく水粒となって肌に流れてきた時、彼は自分の抱いているものにぎょっとして躰を離したのである。その女のはだけた胸から覗けているものは、あまりに美しく、なまなましかった。

だが、無論、妙子はまだ正気を取戻しているわけではなかった。支えてくれるものをいきなり失って、其処にまた倒れかかろうとしたので、この群太郎の仕打ちは、残酷に見えたほどであった。

「おぶってあげます。」

と彼は言った。彼は狼狽して背中を差出していた。

「とにかく山を降りましょう。この下に、貸席がある筈です。そこまでまいりましょう。」

彼は、汗を拭う間もなかった。べっとりと冷えた背に、妙子をしっかりと掴ませて、マントでその腰を掩った。「ちどり」と書いた貸席の看板が、風雪に吹きさらされて横倒しとなったまま、すくっと立上った彼の眼界の雑木林のはるか下の方に看下された。その料亭は、狭山が春秋の遊山にゆきつけの店で、山を下りたところの麻ノ川畔にあるのだった。どうでもそこへ行きつくことを思い立ったのだ。彼の足は、一気に坂を下るまで、黙々と急いだが、ひょいと、針のような羞恥が、脳裡をかすめていた、妙子を探し索めて、「若奥さまァ!」と呼んだ自分の声。この自分の声より、そのときゆっくりと山の壁にぶつかってかえってきた谺を彼は思い出しているのだった。自分の声より、もっと真実感をこめて哀しくひびいてきた谺、……あれはいったい誰の声なのだろうか。

荒々しいほどの彼の脚は、眼下に「ちどり」の屋根が看下されるところへ来て、はたととまった。

「若奥さま。」

と彼は、背中の妙子を赤ん坊をせり上げるように揺って、彼女の意識をたしかめるために呼びかけた。声を出さなかったが、妙子は顔をほんの少しあげた。

敏感に、群太郎は、それを返事にとって、また呼びかけた。

「若奥さまは、本当に死ぬおつもりだったのですか?」

背中では、やはり応える声はなかった。

が、群太郎の言葉はつづいた。

「……だとしたら、私はかえってわるいことをしたことになりますわい。」

「…………」

「人間は、本当に死にたいと思う時がありますものなァ。」

しみじみとそう言ったが、背中の人の反応のなさから、不安になったものか、

「若奥さま、」とまた揺った。やっと背中で、深いため息が洩れた。

「ほれ、指輪が抜けますぞ。」

肩につかまった妙子の指から、あやうく抜けそうなその指輪を、群太郎は、器用に顎でおさえて教えた。

「いつかもこれが、膳の上にころがっていましたな。私が呼ばれて、奥へ上った時……若奥さまの涙のようだと思って、見とりました。」

彼が立って看下す足許に、もう「ちどり」のさびれた屋根があり、麻ノ川上流は、きらきらと人家づたいに見えていた。今、彼等が下りてきた山路から射すうすい陽光は、まさしく早春の穏やかな午前の色であった。彼は感極まった声で、妙子にもう一度声をかけた。

「ごらんなさいまし。朝ですぞ!  無事に着きましたぞ!  ……きれいな川の水と、陽さまの光り!  私は、この景色を生涯忘れませんぞ!」

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