第15章  ある画会の挿話

東屋が店をたたんだのは、それから間もなく、太平洋戦に入ったその年の暮であった。殆どの平和産業と称されるものが、すでになにかの形で、軍需産業の工場に化けようとしていた。東屋も、表面看板を書き換えての営業であったが、ついに閉鎖ということになってみると、転んでもただ起きぬ店主の商魂は、閉店記念と銘うって、全関西の一流画家を網羅した大画会を計画した。犠牲的奉仕などとぼやきながら、彼は同時に展観と即売をやり、妾々在庫品の一掃を狙ったのである。しかしまた実際、非国民的な存在と看なされて、何となく生きにくい世相を痛感していた画家連にとって、これは最後の憂さ晴らしとなったのだったし、永年、関西の屏風、軸問屋として、画家や画商と交際ってきた東屋の最後を飾るにふさわしい催しであった。

画会の場所には、三階の大広間があてられ、宗右衛門の妾宅からは、妾の栄っ川が、これも最後の妍を競わせた十人ばかりの若い妓を率つれて、接待役をかって出た。

その中にまじって働く妙子は、いつもの地味な紺の事務服を脱ぎ、栄っ川の手配してくれた小紋の座敷着に、銀と青の青海波の西陣の帯をしめていた。彼女はこの会に交き合えば、それで職を失うことになっていたのである。

広間二た間をぶち抜いて、緋毛氈が敷かれ、在庫品の金銀大屏風を左右にはりめぐらした会場には、午前中に京都在住の大家連がいかめしい紋服姿で殆ど顔を揃え、東屋の顧客筋である画商や一般の愛好者たち、それに出入りの経師屋と、この時ばかりは時勢を引っくり返したような大時代的な舞台一杯に、豪華な酒宴が始まっていた。

芸妓たちにまじって彼等を接待する妙子は、馴れぬ酒席の華やかな騒ぎから、嫁いできて、初めて迎えたあの法要の日を思い出していた。栄っ川の役を、やはり仙女という先代の二号が受持っていたこともよく似た場面であった。

会場の準備を手伝った時、主催者の白い菊の徽章をつけた東屋が、彼女を、六曲の際立って美しい金屏風の前に拉れていって言うのだった。

「大したもんやおまへんか。いまだにぴりっとも変色してまへん。先代の時分、あんさんのうちから購うたもんだす。……何とかという腕のええ職人……。」

「はあ。」

彼女はためらいもなく、肺結核で歿った今村という老いた職人の名を言った。

「その職人の手打ちですよって、見事なもんでっしゃろ。」

その金屏風は、彼女の着物や、髪や、化粧した頬を、鏡のようにうつして眩しかった。

彼女は今村が、破産騒ぎで押しかけてきたときの興奮した、しかし病気のために蒼白くさえあった顔を思い出していた。国夫や自分に対して、しずかに怒っていた顔、一口に無知な職人と言い切れない、批判する側の人間の顔を彼は持っていたと思うのである。仕事に対してたゆまぬ精進と、義理人情を口にしながら、死ぬまで貧乏で、病気にさいなまれていた彼のみすぼらしい顔とは、まるで無縁なもののように、この箔の表情はいきいきと威厳すら見せて、「箔は生きている。」と、またも彼女に呟かしめた。薄倖な人の手で叩き込まれた箔の一生は、思わぬところに金色の歓喜を見せびらかしてさんざめいていたのである。

東屋は、そんな妙子の瞠目に、一層屏風が輝きを増してくるような満足で、眼を細めて、こんなことも耳のそばで付足した。

「今日はあんさんがピカ一だす。しっかり頼んます。……それにちょっと珍しいお方をあとから引き合わせますよって。」

 

東屋が彼女に引き合わせようと言った相手は、日下群太郎であった。

酒宴のあと、画会に入って、妙子が別室の小部屋に退って着換えをしていると、東屋が改まった顔で入ってきた。

「有為転変は世のならい……。」

酒の機嫌も手つだって、何やら芝居めいたことを呟いてあとで、

「今ここに、日下群太郎が来るいうたら、腰抜かしてしまいなはるやろか。狭山の番頭どんが、えらい者になりよった……。」

滅多に顔の表情を変えたことのない妙子を、充分この一言でおどろかせておいてから、東屋は勢いよく喋りまくった。一軍需ブローカーであった日下群太郎が、堺で買い占めた魚油から洗剤を製造して大当りをとり、ここ暫くのうちに、軍需会社の重役にのし上ったという話であった。東屋にこうした消息が入ったのは、四、五日前の話で、早速に画会の招待状を送ったという。国夫の出征や、妙子の職場進出も書き添えておいたから、ひどくおどろくことだろうというのである。有為転変……と、東屋が最初に洩らした感慨も、尤もな話である。が、東屋の話はそれだけでなかった。彼女をおどろかせるのが目的でないことは、彼の上機嫌の、そのくせ鹿爪らしい太い眉毛のあたりに窺えた。彼はしきりと、彼女の次の就職のことを口にしはじめた。

「今日びは、何というても、軍需会社に限りまんね。何とか日下さんの会社へ頼み込んでみまひょ。この際、先方も狭山はんを見殺しにはでけへんとこや。」

「では、私が、あの人のところへ就職するんですか。」

何とも言いようのない滑稽な幻滅感を味わうだけ味わうと、妙子は他人ごとのように言った。

「そこだす、もとの主従やということは、この際きっぱりと忘れますねん、人間誰しも浮き沈みはあること、それにこだわったらあきまへん。」

現実的な東屋の眼は、すでに一人を成功した軍需会社の重役、更には画会の大事な客として扱い、今一人を今日限り失職する女事務員として、たいそう合理的な解釈を下していたものである。

おおかたの中小企業が、軍の圧迫で、離散したり合併したりしている変動期で、有象無象の新興財閥が出来上っていた時勢であったから、群太郎のその転身も、おどろくほどのこともなかったのだが、妙子はやはり納得がゆかなかった。彼女の心の網膜には、不運にも常に野心に燃えながら、充たされぬ男として、彼は何処かの巷を彷徨し続けているのだった。ひょっとして、永遠に逢えぬ相手として、霧のような存在にしていたのかも知れぬ。

東屋の言葉どおり夕方、群太郎は、以前より一廻り大きくなった重役型の躰を、部厚い地の国民服に包んで現われた。画会の方へちょっと顔を出し、東屋のとりなし顔の話を聞かされたあと、妙子はろくに挨拶もしない裡に、彼のゆきつけの千日前の小料理屋へ案内された。

この辺のこうした小料理店は、構えが猫の額ほどでも、内部は思いのほか広くて、小ざっぱりしている。無論裏口営業なので、客種によって時勢外れの珍味が並ぶ仕組になっている。二人の前に雞の水炊きが用意されるあいだ、殆ど互いに黙り合っていたが、あまりに変り果てた男と女の対峙は、それほど呆っ気なく、過去の追憶じみた言葉を喋らせなかった。

たった一日ではあるが、妙子は過去に彼の全貌を見てしまっている。そのことが、今改めて大きな意味をもって、この部屋の沈黙を重苦しくしているのであった。永いあいだの心の屈折を説明するだけの親しみが直ちに湧いてくる筈もなく、彼女はその癖なにか一言を喋りたくて、あの頃に続く言葉を探していた。

が、それを推し量ったように、彼の方がぽそりとさりげなくこんなことを言った。

「ボンが生れなはったと聞いとりますが、あの時のやや子はんでっか?」

あの時と彼も言ったのだ。妊娠していた彼女に、あの時、その胎の子の父となると、群太郎は言ったのだった。彼女はただ首を振ってみせる。彼女にしてみれば、虚を衝かれて、不意に若妻であった頃の弱々しい表情になったものだろうが、それが相手の心に沁みたらしく、群太郎は酒の入った顔を大真面目に、彼女にむけて、

「運命ですな……。」

「…………」

妙子は、あの時、彼に手渡した自分のほんの一握りの心が、そこにむらむらと炎を上げて生きているのを見た。言ったあと、群太郎は、羞恥で光った面のような顔をしていたのである。

しかしそういう場面は何時までも続かなかった。東屋の眼とそっくりの現実的な眼を、彼も亦持っていたのである。東屋から、彼女の就職を頼まれたと言い、国民服の胸のポケットから名刺を取出す彼は、傲然とした構えが身についていて、今までの彼と別人のようだった。

「そのお話でしたら、何卒もうよろしいんですから。」

すると彼女の方にもそれに応えてゆく別の意識のようなものがあって、宅の近くの工場へ勤めることになったと言ってしまった。

「そらよろしかった。何かと就職もややこしい時勢で……世の中が引っくり返るような戦争になってしもて、こうなると、戦地へ行ってしもた者は行き損ですがな。」

そんな話題から、国夫の話にうつった。

「ほんとに運のないひとです。」

北支にいる良人のことを、出し惜しみするように妙子は喋っていた。それはおかしな気持であった。以前番頭であった頃の群太郎が、国夫に対して、何か批判するような驕ぶった態度であったのを思い出し、すると今彼女の口にのぼった戦病者の国夫が、またも目の前の群太郎の奇妙な圧迫を受けているような錯覚を感じたのである。良人が仕事の上で、才覚も運も、群太郎に劣っているということ、しかしそんな時流に滅び去った国夫の、どこか典雅で、また書生っぽく、下手くその商法は、妙子に懐かしいものであった。

「しかし私は、この商売だけで満足でけまへん。箔、箔、戦争が済んだら、大々的に箔をやります。」

群太郎は何を思ったものか、そんなことを言い、相手の妙子が目の前で感じている錯覚を、そのまま現実にひっくり返してみせるようなことを言ってのけた。

「実のところ、もうその計画で、金沢に家も工場も買うてあります。……それ何処やと思います?  もとの狭山、あんさん方の家のあとを、そっくり買いとりました。」

「…………」

「今こそ軍物資の倉庫に化けとりますが、戦争が終ったら、あそこで商売を始めます。はゝゝゝ、金と銀!  人間の慾とか夢とかいう奴は結局これですが……戦争のあとには、この豪勢なものが受けますねん、はゝゝゝ、世界中がピカピカに化けますねん。」

ひょっとして群太郎は、何年ぶりかでめぐり逢えた妙子に、自分を誇示し、ただおどろかせたくて、無邪気に弾んでいたのかも知れなかった。そして充分、妙子はおどろいたのである。話の最中に、良人の悲鳴のようなものすら聞いたのだ。

こんろの上で、水炊きの雞肉がくつくつと煮えていた。湯の泡にはげしく揺られる肉のこまかな顫動は、じっと瞠めているだけで、この場面をむごたらしい愛欲の場面に一変させる衝動的なものだった。目の前の男の、金沢弁とも大阪弁ともつかぬ口説も、飢えた悲しい動物の咆哮を聞くような気持なのである。夢香山での、どんなにか苦しかったあの献身について、何故彼は語ってくれないのだろうか。女を愛している男が、どんなにやさしく強いものであったかを、ふっと知りたい気持が、瞬間彼女の心をかすめた。

「変らはった……。」

しかし相手はそのとき、急に嘲笑するように妙子を見て言った。独り芝居をしている自分の饒舌に堪らなくなった苛立たしげな顔だった。その顔で、彼は矢継早やに喋った。

「いや、こっちが変ったのですわ。戦争成金!  はゝゝゝ、いやらしいものになってしも太。……しかし何時の世にも、金を握った者が、まず権利や生命を主張でけますのや。正しいなどということは、一番あとから、のこのことだらしなく従いてくるもんですわ。」

施療院を出た彼が、どんな目に遭ったかということを喋るのだった。施療院を出るなり、強盗犯人とまちがえられて、警察へ挙げられたこと。不運にも国夫からの金が届いた直後で、その大金のために、ろくに取調べられることもなく、半殺しの目に遭わされたという。人相のわるい浮浪者が、施療院を出て直ぐ大金を持っていたとあっては疑われても仕方がなかったが、狭山の方へそのことで問合せがあったのは、真犯人があげられてからだった。

「正しい、と私が言い張るたび、引っぱたかれましたからな。はゝゝゝ、正しいということが、あんなに情けないことだと思いませなんだ。……そう言えば、狭山でも、私を放火犯人にしてしもうたではないでっか。人間、ほんとに苦しい時は、誰も助けてくれまへん。」

彼はもう笑ってなどいない。憂鬱なほど酔いのまわった光る眼で、妙子を見ているのだ。

そんな彼に、漸く妙子の方は、なにか言わねばならぬことがあるのだった。大阪へ出て来た当時、あの施療院へ彼を尋ねていったこと、天王寺の桜並木の下を、まことに恋しいひとの消息を訊く思いで、あの建物へ入っていったことを、そのとき彼女は告げようとしてやはり黙ってしまうのだった。群太郎が、今、怒っていると思うと、一種快い受身の姿勢で、思いきり彼を怒らせておきたかった。彼がもっと哭き、もっと呻き、もっと吠えればいいとすら思うのであった。その時こそ目の前の水炊鍋に連想した、あのむごたらしいもので一変する男の感情がある。……情欲がある。

しかし、時計が八時を打つと同時に、燈火管制のきびしい達しがまわってきて、小婢の出入りが頻繁となった。妙子の気持はそこまできて、ほっと別の現実のところに対きなおっていた。ただわけもなく、姑と彦一のいる家が恋しかった。まもなく彼女は、小料理店を辞して帰途についたが、彼女が本当の悲哀を味わったのは、そこを出て、暗い街路上を歩き出してからであった。

奇妙にも、永いまよいと闘いから解き放たれた人間の虚しさが、彼女の躰の骨骨のあいだを風のように吹き流れていった。おそらく男の方にもこれとおなじ寂しさ、虚しさが取残されているとしか思えぬのだった。

空には、月も星もなかった。幾条かの探照燈の光りが空に交錯し、忽ちその一つが地上に落ちて屈折すると、思いがけないところにある小さな路次の奥を真蒼に染めた。防空具に身をかためた男が、メガホンを手に怒鳴り歩き、行人はその指図を受けて、集ったり散ったりしなければならなかった。市電はこの行事のために停止していたので、南海の地下鉄の昇降口まで、彼女は歩いていった。そして急に眩しく、光りをふんだんに与えられた地価の電車の混雑のなかで、なんと一年のようにも感じられたその一日のめまぐるしいできごとを瞼に封じていた。明日というこれからの日々が大きく立ちはだかっているのだ。今、彼女が見てきた世界は、彼女の心の何処の部分に納まってくれるだろうか。――それにしても、と彼女は思う。これでよかったのだ。心の奥に、彼女は要心深く良人を匿していたことに漸く気づいていた。「何もしなかった。」ことにほっとしている女の心は、さまざまの女の心のなかで最も慾深いものなのである。「何もしなかった」ことによって得られる無辜の幸福を、彼女もひそかに識ってい、今、それを充分に味わっているように思えたのである。

 

りつが歿ったのは、大阪に珍しく雪の降る朝であった。

一坪ほどの庭に舞い落ちてゆく風花を、ガラス戸越しに、りつは臥床のなかから見つけた。

「妙さん、雪!」

と、りつは台所にいる妙子を呼んだ。

妙子は東屋を辞めてから、近所の防毒面をつくる工場から、部分品の仕事をもらってやっていた。僅かの工賃だが、病気の姑を看とりながら、一日の時間のやりくりもできたし、彦一にも手伝わせて、案外に能率をあげることができた。その日も、朝早くから、数を合せるために、早起きをして、台所でせっせと励んでいた。指尖に力の要る仕事で、彼女の指は傷んでいた。炊事を見たり、その指尖の凍えそうな痛みを、こんろで温めていると、

「雪が降って来ましたぞ!」

と、りつは、子供のような声を出して、また妙子を呼んだ。ふわふわと、雪はまるで妙子の家の庭だけに降ってきたもののように、気まぐれに落ち、土になじみのない消え方をしていたが、それでも暫くすると、白々とした線をつくっていた。

「金沢では、こんな日、町にどっと蟹が出て、賑やかなものでしたに。」

りつは、それから起きかえって、いつものように床の中で洗顔しようとした。彦一はまだ臥ていたし、病気の老人が起き出すには早すぎたのだが、よほど雪が珍しく嬉しかったものと思える。ここずっと、りつの朝々の思いは、戦病で異国の病院にいる国夫への安否であった。……可哀や、金吾は……と出かかる口癖の一口浄瑠璃が、嫁の妙子には、可哀や、国夫は、と聞えそうなほど、心に通うものがあるのだった。そしてその頃、当の国夫は、太原の陸軍病院から、肺結核という病名を報せてよこしていた。遠からず、彼を含めた軽症の結核患者のみは、其の病院に集結され、特別に仕立てられた結核船で送還されるという便りであった。もっと正確に言えば、その時間に、彼は太原から北支、北支から天津の病院へと転送され、すでに、広島の二ノ島に着いていたのである。

「妙さん、妙さん。」

と、りつは洗面器を運んできた妙子を呼び、突然、洗面器に義歯を投込むと、慌てて立上ろうとする恰好をした。

「妙さん、また夜になったのかいに?」

と、手探りで、妙子の腕に縋りつこうとしたのを見て、初めて妙子は、この姑の異常に気がついた。彼女は、ぎょっとして、倒れかける姑を抱きしめた。

「……夜になったのかいに?」

と、もう一度訊き、りつはそのまま息絶えていった。

洗面器に落した義歯がそのままだった。義歯は、老人の口から出たものとは思えぬくらい大きく、洗面器の底に鮑のように沈んでいた。

ひたすら家の繁栄のために、きりきり舞いをするほど忙しく、心身を廻転させていた。四十五十の代が、りつの最も華やかな時代であったろうか。あれこれと五尺の躰いっぱいに絞った女の知恵も空しくて、結局は血のつながらぬ、心の底もわからぬ嫁のふところを、唯一の抱かれ場所として、逝くよりほかなかった。

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水芦光子さん原作『雪の喪章』 全文掲載