第7章  灰燼

満開の桜の花が、妙子の臥ている病室の窓いっぱいに覗かれる。窓が開いている時は、一枝、とくべつに美しい桜が、女の顔のように近々と倚り添っていて、彼女をおどろかせる。

「ちどり」から、付近の産婦人科病院に移されて、半月余りのあいだに、下界の眺めは一変して、うらうらと、桜の花につつまれた春景色であった。

すべてが遠い日に起った通り魔の一日のようでもあれば、昨日のなまなましい傷あとに触れるような苦痛でもある。

それを察してか、毎日のように見舞いに通ってくる国夫は、みじんも妻をとがめるような言葉も吐かず、涙ぐましいほどのいたわりだけを見せてくれる。彼のそんな風な全身を賭けたようないたわり方には、一層その背後に、りつやせいを重苦しく感じさせるものがある訳である。彼はまだ一度も、母やせいのことを口にしないでいた。群太郎のことに就いても触れていなかった。出来るものなら、そういう者と絶縁して、ずっとこの病院に彼女をおき、自分はこうして通ってくるのが愉しいとでも言いかねない容子なのである。

流産後の彼女の容態は、今は日一日と快方にむかって居、帰るべきところへ帰らねばならぬ日が刻々と近づいているのである。その日、夕食の時間を見計らってやってきた国夫は、持参した二人前の幕の内の折詰をひらいて妙子を喜ばせると、初めてりつのことを喋った。りつが、この弁当を誂え、職人一同を連れて、山中温泉へ、一泊の慰安旅行に出かけたというのである。

「若し、躰の具合がよかったら、今から僕と一緒に家へ帰ってはくれないか。……病院ではとっくに許しが出ている。」

明日の夕方ごろ、母は帰ってくると言い、その前に妙子を家に入れておきたいのだと、言うのである。

「正直なところ、お母さんは、あんたを難じている。離縁なんて極端なことまで言い出している。だが僕は絶対にそんなことはさせぬ。……場合によっては、お母さんと別居することも考えている。

りつが一度も病院へ姿を見せないことからして、姑の不興は想像できたのだが、良人の緊きしまった顔の肉や、慎重に出てくる言葉の端々によって、妙子は、意外にきびしく母子が対立している家の雰囲気を、判然と知ることができた。そして話の勢いをかりて、せいのことにも、彼は触れた。

「せいも実は今日限り、根布に帰した。すべて僕の一存でやったことだ。……僕の、ここまで決心した気持というものを、あんたも今度ははっきり認めてほしい。……」

不思議と彼は、分別のある静かな顔をしていた。暫くの間に、彼が、この事件によって心境の変化をきたしたのはたしかである。以前から彼は、決して妙子を疎かにした訳ではなかったが、今度は余程慎重なものを用意して、妻にむかっている風である。

「たった今、せいを帰してきたところだ。……今ごろ、彼奴は、粟ヶ崎行きの電車の中にいることだろう。」

表情を変えない男の顔は、またそれはそれで悲しいものである。恬淡と国夫は他人ごとのように言って除けたあとで、

「群太郎のことだが、」と言った。

「せいとのことがうまくゆかなかったのを根にもって、今度はあんたまで奪ろうとしたらしいな。だが、ちどりの主人が此方へ報せてくれた。……」

妙子の咽喉を、ゆっくりとおりてゆく唾があった。まじまじと良人を見る彼女の眼は、その程度に、彼が群太郎を知っていることへの感謝に似たもので、やさしかった。

「折角あんたを助けておいて、何も逃げ出すほどのこともないのに。なにせ、ひねくれものゆえ、矢鱈と僕の持ち物が欲しかったんだろう。……」

国夫は鷹揚に笑った。何となく妙子もその雰囲気に合せて笑った。が、そのとき、彼女の心のなかに無残に潰されてゆく哀れなものがあった。群太郎の哀れな叫び声のようなものが聞えたのだ。群太郎のあの告白を聞かされたとき、自分の前に去来した小さな秤の危険な振動、あれはあの時の自分自身の動揺だったのだ。あの小さな秤に自分がかけていたものは、やはりこの国夫と群太郎ではなかったろうか。

山上で、自分を蘇らせてくれたのは、死物狂いの群太郎の全身摩擦であったが、そこから起った熱い無風帯にも似た彼の情熱が、病臥の彼女を時折、えたいの知れぬ気持に捲き込んだものである。それから、自分を背にして山を下ったとき、サファイアの指輪を見て初めて洩らした素朴な告白、そしてあの疲れきった哀れな顔、それらを忘れ去るまでに、いったいどのような時日が費い果されるであろうか。いや、それは忘れてはならぬものかも知れない。生命とか、情熱とか、彼女がまだ一度もぶつかったことのなかった問題が、その記憶のなかに、どんよりと燻ぶっていたように思えたからである。

妻の心のなかで、哀れな悲鳴と共に消え去っていった男のあることを知るべくもなく、国夫は、妙子の手をとり、甘く鷹揚な所作で夫婦らしい場面をくり展げようとしている。だが、それでいいのだと妙子は思った。病上りの自分に要るものは、安易と、平穏な空気なのだ。五十歩も百歩もゆずって膝まづかんばかりにしている良人の懐ろを、いまは憩いの場所としたかった。

「少し暗くなってからの方がいいだろう……無論タクシーで帰るから、誰に逢うというわけではないが……。」

しかし、窓の外は殆ど昏くたそがれかけていた。先刻まで続いていた夢香山の遊山帰りの影法師もすっかり途絶えて、無気味なほど静かないっときである。不吉といえば、開いている窓からいつものように覗いている一枝の桜の花が、ひょいとせいのようにも思われたことである。無口でさびしげにうなだれている頬の美しいせいを、傍に見るようで、妙子は、あたふたとした手つきで、ベッドの上から窓を閉めていた。風が強く、生温かい。夢香山と市街をつなぐ常盤橋のあたりに、ちろちろと灯が入るのを見て、彼女は、病上りの腕いっぱいに、病室の冬の名残りの重い鍛子の窓掛をおろした。もはやこの病室で、このような所作をすることもあるまいと思うと、看護婦を呼ぶほどのこともなかった。

夫婦が、火事を告げる半鐘のけたたましい音を聞いたのは、それから三十分と経っていなかった。そのとき、「家事」と「狭山」とを結びつける彼女の異常な予感と執念は根拠のないものではなかった。狭山へ帰ってゆく自分の不安な立場が、良人のやさしさとは関わりなく重く彼女にのしかかっていた。そしてあの家で起った過去の忌わしい事件を全部灰燼にしてしまわねばならぬほどの激しい衝動が、半鐘の音を聞いた瞬間、身の裡を掠めていった。

看護婦が、狭山家の急を告げに入ってきたとき、すでに国夫は席を立っていた。彼はバルコニイを上り下りしていたが、「見てくる。」とだけ、妙子に言い捨て、そのまま外へ出ていった。その無感な、虚ろな顔が、この大きな災害を、やっとほんものに感じさせたのである。妙子は、看護婦に手をとられ、病院の人たちにまじってバルコニイへ上ってみた。火事が狭山の辺りと聞かされてみると、予感どおりのできごとに、却ってじっとして居れぬものを感じたのだ。

川向うの遠い眺めながら、風に煽られた火の粉はいちめん火事場から噴き上げられて,空をさかんに焦がしている。柳並木や弥次馬に見えかくれて、消防車らしいものが入ってきたのが、麻ノ川の川水にうつっている。川の水も火で赤かった。

「美しい!」

と、彼女は途方もないことを呟いていた。燃えさかっている火は、彼女に、その家で虐げられていた自分の過去を誇大にしてみせる悲壮感を盛っていた。

「水の便がようございますから、じきに消えます。お気をしっかりとお持ちなさいまし。」

と付添いの年配の看護婦は、尋常なことを言った。そしてその間にも、炎が、風の勢いを得て、別棟に燃えうつっていった。

国夫から電話がかかってきたのは、その家事も焉んでから、小一時間も経ってからだった。やはり狭山が火元であったのだ。建ったばかりの工場も、主家も全部燃えたと、彼は言った。彼の声は受話器のなかで、破れて、実に哀しく聞えてくる。

「誰もが居なくて、どうにもならなかった。こんな運のわるいことってあるもんか……気を落すなよ、しっかりしてくれ、僕たちは裸だ。もう何もない!」

暫くためらったあとで、彼はこんなことを付足した。

「道具は少しばかり助かった。近所の人と、せいのおかげで……せいが途中から駈けつけてくれて、あんたの鏡台を出してくれた。……それから、この火事は放火かも知れんのだ。今警察へ来ている。……温泉へ行っている連中も直ぐ帰ってくるだろう。とにかくそちらへゆくのは明日になると思う……気を落すな、元気を出してくれ!」

彼女に一言も喋らせず、国夫はあれもこれも一気に吐き出そうとして、昂ぶった声をはりあげていた。彼女は吸取紙のように、おとなしく黙々として、良人の言葉を受話器のなかに落していたが、一言、せいという言葉に突上げてくるえたいの知れぬものがあった。そして火を眺めていた自分の気持の恍惚としたあまさ、到底自家が燃えているのを見る者に許される筈のないあのあまさにぞっとしていた。

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