第8章  燃えなかったもの

火事の被害は、倖い狭山だけにとどまった。

店に面したところだけが道路となって居り、隣家といってなく、両横とも空地で区切られていた上に、看護婦が言ったように、水の利があったからである。

出火の原因については、色々と取沙汰され、国夫は度々警察に呼び出されたが、結局細工場の火の不始末ということになった。

最初、りつをはじめ、雇人と職人全部が温泉へ出かけて留守であったことから、事情を知っている物の放火であると推量されたが、目撃した付近の者の話では、細工場の方に、最初の火の手があがったと言う。細工場には炉があり、いつも僅かであるが、火を入れてあった。りつが旅行に発つ間際までそこに居て、金屑を燃やしていたことがわかると、話はそこに落着した。

放火説については、他人に恨まれる理由はないとして、ただ一人、群太郎の名が問題となったが、彼の消息は間もなく判明した。

彼は意外にも、大阪の天王寺の施療病院に、行路病者として収容されていたのである。こちらから探すまでもなく、病院から照会があり、国夫はそんな不幸な通知に接すると、早速に彼が遺していった相当額の貯金を送ってやったりした。

箔の生産拡張の矢先に起ったこの災害は、国夫にこの上もない痛手であったことは言うまでもなかった。

僅かに使用に耐える機械を集めて、どうにか操作させるための急造バラックが一つ建てられると、一隅に夫婦二人が漸っと寝ることができるほどの居間が造られ、そんな場所へ、病上りの妙子は、タクシーで一ヵ月ぶりで帰っていった。

そしてそこに、やはりせいが居たのである。

りつは、それより先に、能登の親戚へ身をよせてしまっていた。りつにとっては、妙子の家出と言い、今度の出火と言い、いずれも自分自身に関わりのある不祥事ゆえ、人には打明けがたい後悔や、忿懣の念が、老いの身を傷つけていた。その上、杖とたのむ群太郎とも、狭山家の縁は切れてしまっていた。商売に殆ど未経験な息子相手に、この家の再興はおぼつかなしと見切りをつけると、自分名義の小金をそっくり持って、田舎へ引籠る気になったのだった。

「せいのことだけど……」

妙子が帰ってきた日、タクシーで迎えにきて、抱えるように彼女の躰を、車から家に運び、臥床に就かせると、その枕もとに浮かぬ顔で佇ちはだかったまま、国夫が言った。

火事のショックを受けて、一時また病院生活を続けた彼女は、まだ頭が時々神経病のように痛むのである。

安普請のその六帖間に、見馴れぬ柄の新しい夜具が敷かれ、直ぐにもその臥床に臥まねばならぬほど、彼女の躰は衰弱していた。

その時、国夫の顔は、やさしくはあったが、うちとけてはいなかった。臆病でさえあり、なにか腫れものに触るように自分に対していると、彼女は思うのであった。ことさらにつくった渋面が何のためのものであるかも逸早く察しがつくのであった。

せいを、いかにも疎んじているかのような口吻りで、

「困ったもんだ、あれがねえ……、」と切り出した。

「あれがまた、置いてくれと頼むんだ。なにかと、あれから周囲もうるさいし、僕も困ってるんや。やっとどうにか身を退かせるところまでいっていたのに……。」

そんな言葉のあとで、実はその布団も、あんたが帰ってくるというので、せいが昨日一日がかりで縫ったと言い、今までどおり女中でいいからと本人が言っていること、また事実、あんたの今の躰では人手なしでは無理だということを、とりなし顔で言う。

「これまでと家の事情がちがうんだ。僕もこの際、工場の再出発に身いっぱいだし……。」

部屋の隅には、せいが、生命がけで、火事の際、持出したという妙子の鏡台が、下り藤の定紋入りの被いをかけたまま、おかれてあった。

そして当のせいは、直ぐその部屋の窓の下にしゃがんで、せっせと、豌豆や胡瓜の畑作りに余念がなかった。いや、国夫が、窓から声をかけて呼び入れてくれるのを、まるで罪人のようにおどおどして、待っていたのである。

手拭を姉さんかぶりにして、勝手口から入ってきて、脚を洗っているせいの、小柄な、いじらしいほど肩をすぼめている姿を見たとき、またしても妙子は、敵手としてその女を感じていたことに、奇妙に気がひけるほどの哀れさをおぼえた。

「お帰りなさいまし……。」

脚と手を拭き、せいは部屋に入ってくると、妙子の前に、ていねいに手を仕えた。

「いろいろ、心配かけてすみませなんだ。」

言葉たらずな二人の会話は、さむざむとして、意外にきびしいあと味をのこした。時間と事件の経過をそれぞれがその位置で経てきたことを物語って、ぎこちなく淀んでいた。

日向から急に暗いところへ入ってきたせいは、妙子や国夫の顔の輪郭が、次第にはっきりしてくると、じっとして居られぬような物腰で、また手拭をかぶって外へ出てゆこうとした。

「落ちつかんか、もっと……。」

国夫が怒った風にたしなめたが、三人の中誰か一人、最も弱く、曖昧な者が抜けなければならないような重苦しい空気であったのだ。

妙子はなにか意識したやさしさで、良人に加勢した。

「そうよ、もっとお話してもらわなきゃ。……いろいろ大変なことばっかりで……火事のとき、どうしなさった?」

せいは当時、まだ根布へ往く電車に乗らず、駅前にいたのだと言う。駅前で、半鐘をきいて駈けつけたと言う。

「私の荷物は、全部荷造りして送ったあとで、何ひとつ焼きませなんだ。当分、若奥さまのお役に立てて頂きましょうか、おっつけ送り返してくると思いますげ……。」

「せい、茶を淹れなさい。咽喉がかわいてきた……。」

国夫は、漸く安堵した顔色を見せてそんなに言ったが、妙子の心のなかは何ほどの変化も見られなかった。つくづくと眺めやる六帖間はあまりに狭く、ここへ運ばれてくるせいの道具は、あの離室の感じで並ぶことだろう。

おそらく、せいと良人とは、昨日まで、この一と間に臥ていたものにちがいない。茶道具を運んできて、茶を淹れてくれるせいの手つきは、やはり、すでにこの家の人になってしまった女の手つきであり、何のためらいも見られなかった。

「若奥さま、焼跡って、ほんとに厭なものでございますわね、……少しでも忘れてしまいたいと、青いものを蒔いたりしてみました。お気分がよろしかったら、あとから少し歩いてごらんなされ。青いものはよろしゅうございます……。」

せいにとっても、この焼跡にくすぶった狭山の家の思い出は、苦しいことだらけなのであろう。そうしたものにめげず、苗を植え、種子を蒔き、手近かな自分の労力でもって、ささやかな幸福を見つけ出そうとするのは、せいの性来身についたものであった。すでにせいははればれと、頬に悦びをみせ、急速に妙子の方に凭って来ようとしているのである。

「……わたしは、この板土間の方で臥ませて貰います。若奥さまのお躰がよくなられるまで、居らせて頂きます。快くなられましたら、お暇して、何処ぞへまた、奉公いたしますからに。」

「そんなにまで言うてくれてすみません。あんたの厄介になることばかりでしょうに……。」

工場から、使用人が呼びに来て、国夫は起っていった。

以前とくらべては、問題にならぬさびしさだが、それでも機械の音がしている。棟つづきなので、床や壁に響いてくるのが、漸く妙子に馴れてきた。

直ぐ引返してきた国夫は、

「今夜、大阪へ発つ。東屋から色よい電報がきたので。」

三人は機械の音に耳を傾けた。この工場の機械の音がこれきり消えるか、更に元通りに復活するか、一に東屋の援助に与っていると国夫は言い、

「東屋にしてみれば、今、うちをつぶしては元も子もないからな。……大阪商人は賢いよ。」

勢い込んで、元気よく喋る国夫には、思いなしか、濃いやつれが見えていた。思いがけぬ仕事の挫折からか、それとも女二人のあいだに挟まれた愛情の気苦労からか、あまりにも多くのものを持とうとして、この善良な人は愚かしくも傀儡のように弱りきってみえた。

暫くして、彼は言った。

「大阪に行ったついでに見舞ってやろうか……。」

話の穂を、妙子でなく、せいが取って、

「群太郎さんのことですか……もう放っといてやりなされ、あんなおひとのこと。」

二人のあいだに、群太郎が話の種になるらしい口吻であった。せいとしては珍しく出すぎたこの口ききは、妙子にもありがたい同感の言葉であった。群太郎という名は、人前に出して言いたくない名なのである。まして、彼と良人との対面は、想像してさえ、不安な、不吉なものを感じさせる。

「貯金を送ってやった受取りもよこさないでいるから、だいぶ病気が重いのではないかと思ってね……。」

「おやめなされ、もうあの人とは無縁になった方がよろしいではありませんか。」

妙子もそう言って忠告めいた表情をした。二人の女のしかめ面と忠告は、国夫を内心満足させたようであった。彼はまた躰をかえして、工場へ出かけていった。

「若奥さま。起きておいでなら、お髪を結わせて下さいまし。そうしていらっしゃると、お顔が小さく見えますぞ……。」

その時、一杯に気をつかって、鏡台の前に、妙子を坐らせるせいであった。

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