第12章  施療院へ

天王寺公園の桜の花の下を、妙子は、天王寺の方にむかって歩いていた。

陽は鈍く、灰色の空のむこうから、光りというよりは、幕のように動きのない、かったるいものを街に垂れていた。

大阪の街を、はじめて独りで歩く彼女は、なにかに憑かれたように、いそぎ足であった。公園のなかを浮々と歩いている花見客の、うすい淡紅色や、クリーム色の派手なひらひらした装いにまじって、妙子の大島銘仙の上下は、陰気な冬ごもりに明け暮れている北国の色を、そのまま持込んできたように暗くて、ここでは季節外れであった。が、彼女の顔は、そのためいっそうくっきりとなにかの果実のように蒼味をおびていた。彼女は桜の花には殆ど無関心をしめしていた。桜の花を仰ぐ余裕のないせかせかした歩きぶりであった。

彼女にとって、桜の花は、春の陽気な花として記憶されるよりは、なにか身辺の耐えがたい事件にかかずらっている時期をえらんで自分を見舞う、季節の気流の感じであった。事件のさ中に、自分をとりまいて眼を見はらせてくれるこの美しい尨大な水蒸気のかたまりは、やがて彼女が冷静をとり戻した時分には、きまってあとかたもなく地べたに、紙切れのように散り敷いてしまっているのである。

数日前、金沢の陰惨なみぞれの中を、夜行で発ってきた彼女は、別天地のようにひらけた大阪の明るい桜風景におどろきながら、何故か昨日の出来事のように克明な京太の死や、破産騒ぎを思い出すより、もっと遠い過去に起った自分の失踪当時のことを、憶い出していたのである。

あの時、群太郎が、「ちどり」から帰ってゆくと、間もなく流産の徴候があって、彼女は付近の病院にうつされ、その後の彼の失踪をきかされたときも、桜はこのように、病室の窓いっぱいに咲いていた。

若しも自分に、あのとき、流産という突発事が起きなければ、自分は群太郎の申出のように、彼と共に大阪に遁げたであろうか?  そのような刹那を想像しただけで、あのとき、夢とも現ともつかぬ秤を瞠めて激しく揺れた心の危機があった筈である。群太郎は、最初に彼女を無視した男である。彼女の方も、彼の陰鬱な、ひねこびた容貌や、挙動に反撥し、絶えず無関心では居られぬものをかき立てられていた。そして、雪の夢香山で仮死状態に陥ったところを救われた途端、思いがけぬ告白を聞かねばならなかった。彼女はたしかにそのとき、何ほどかの自分の心を彼に手渡ししている。その心が、彼の方に、どのような形で生きているだろうか。そうした疑問とも懸念ともつかぬものに、時々思い悩んだものである。彼女はそれを愛情とは程遠いものだと思いながら、じっくりと心のなかに離さないでいたのだ。愛情にも、もしも生きものとしての躰があり、さまざまの部分で成り立っているとしたら、彼女が群太郎に対して持とうとしたそれは、充満しきった美しい肉の部分でも、柔らかな皮膚の部分でもなく、ほんの僅か、四肢の尖に残された動物のにおいのする爪の部分にあたるものであったろう。彼女は実際、なにかの折、自分の蹠の中に曲がってかくれている足の爪を見るとき、群太郎の陰鬱な眼の白い部分と、彼の生い立ちの貧弱の悲しみと、それらとすれすれに消えていった哀れな二人の逃避行を憶い出すのであった。

生活の条件が、彼女に群太郎とのことを忘れさせたというのなら、新しい生活の条件が、今またそれを憶い出させたということもできる。彼女は大阪に住むことになったために、かつて群太郎が収容されたという、天王寺の病院を訪ねてゆく気になったのだ。

しかし六年前の話である。彼女は無論、今もそこに群太郎がいるなどとは決して思っていなかった。そしてこのような徒労に近い思いつきに、何故自分が懸命になっているのかわからなかった。それはやはり、六年前の、ひそみにひそんでいた感情の盛上りのようなものに思えたし、逆に妻としての妙子の良心が、そのような感情に結末を与えようとして忙いている仕業とも思えた。

その建物は、電車通りを越えると見えていた。施療院と普通呼ばれているその病院は、天王寺の経営による古い建物であった。そしてその中に入るまでの彼女のこうしたながながとした思索に憑かれた時間とくらべて、僅か二十分ほどで、彼女は其処から出てきたのである。しかし、徒労に終ったという訳ではなかった。日下群太郎という六年前の一施療患者の名前を、事務所の年配の係員は記憶していた。

六年前、梅田駅前に行路病者として倒れていた群太郎は、一ヵ月余、此処に収容されていたこと、病名は急性肺炎であった。しかし、係員が記憶していたのは、そんなことのためではなかった。退院後、彼が間もなく、なにかの凶悪な犯人と間違えられて、警察へ検挙され、何ヵ月後かに真犯人が捕まったので、彼の方が釈放になり、その時、非常に躰をわるくして、再び警察からの依頼で預ったという、ややこしい事件に絡んで、係員は記憶していたものであった。貧相な、ぶっきらぼうな係員の口からは、その事件に関しても、それだけしか聞けなかった。

「何しろ、あの男は、そのとき身分不相応な大金を持っていたというこっちゃ。」

係員は最後にそうつけ加えたが、このような話題を持込んだ女の美しさまでが、気に障っている顔つきをしていた。

国夫が心配して送ってやった彼の貯金のことを指したものだろうが、その金が災いして、彼は検挙の憂き目を見たものだろうか。すると、また彼女は、料亭「ちどり」を出てゆく時の、群太郎の顔にふかぶかとかぶさっていた疲労の翳を憶い出すこともできた。自分を救うために、彼が夢香山で精魂をつかい果したのだという不幸な事実も、この時まざまざと思い知らされねばならなかった。すでに「ちどり」を去ってゆく慌てきった彼の所作は、運命に見放された奴凧のような舞上り方をしていたと思うのだった。少からず心を傷めて病院を出てきた彼女は、それにもかかわらず、一点はればれとしたものを感じていた。

「彼が死んでいなかった」ということのためなのだった。そして彼女は、この安堵を得るために、自分は憑かれて歩いていたのだと思った。

アベノ橋まで急ぎ足で引返し、阪和線で住吉区山阪町の新居へ帰ってきたが、途中、市場に寄り、青物店で、水菜という名の野菜を一株買った。緑と白のほそい線のような縞でできたその菜は、いかにも名のとおり水々しかった。店先の水槽に漬けられたくわい、しらたき、高野どうふと、関西らしい味覚のものを添えて買い、いちように滴のたれてくる気忙しさに、妙子は駈けるようにして、家へ着くと、二尺ほどの板戸の勝手口にまわり、水道の蛇口の下にそれらを置いた。

「ただ今。」と姑のりつに声をかけた。

そんないそいそとした妙子の所作が、独りしょんぼりと留守居をしていたりつの気持を引立てて、りつは子供のように駈けよってきた。

「今夜は寄せなべでもしようかと思いまして……。」

「そりゃよかった。」

りつは、妙子の外出について、なにか訊きたそうにしたが、それだけ言って、台所へゆき、よせ鍋の材料に満足そうな世辞を言った。りつは大阪へ来たことを後悔しているようであった。が生来の気丈さから、それをかくしていた。しかし、いきなり古い土から引抜かれて、新しい土に埋められた植物のような弱り方をしているのは誰の目にもあきらかだった。

りつと較べて、息子の彦一は、生れ変ったように快活に、丈夫になっていた。まるで物の怪の落ちたように活気に溢れ、一日中外へ出て、新しい友だちと、新しい遊戯に夢中になり、はやくも大阪弁を家の中に持込んできた。

妙子は、今更に、家庭の空気を微妙なほどに吸込む成長期の子供の胸の敏感さと、精密器具のレンズのように、ものの陰陽をくまなく反射してみせるその瞳の色におどろいたものだった。

棟割長屋風の建物は、南大阪の新住宅地の殆どを占めていたが、妙子たちの住む家は、六帖と三帖のまことに粗末な長屋で、殆ど着のみ着のままで、金沢を発ってきた一家には道具らしい道具もなかった。きれい好きのりつの手で掃除されたあとは殊更、洗い立てたように寒々としていたが、老人には、物と心の両方から侵されるその空虚な思いは、たとえようもなかった。狭山の過去とも、金沢とも絶縁された生活である。そしてまた戸外から帰って来て、妙子が家を覗くときの、「せいがいない」という感慨めいた気持には、ながい混迷の涯に辿りついた人生の寂とした風景が嵌っているのだった。

破産といい、京太の死といい、これほど大きな犠牲を払わなければ、自分たちは、せいと離別することはできなかったのであろうか。

家族四人が水入らずでとる、ささやかな夕餉の寄せなべ料理には、ながいながい妙子の夢にまで見た生活の成就のよろこびがあるのだった。

 

国夫はその夜、おそく帰ってきた。

船場のまん中にある東屋屏風店で、彼に与えられたのは、丁稚から叩上げられた万造という男の許で、出荷係を勤めることであった。

毎日の全部の出荷が終るまで帰るわけにはゆかず、帰る時間は定っていなかった。東屋の主人の考えでは、最初、事務机のあるところに国夫を据えるつもりであったが、国夫が東屋にかけた負債は大きく、株式会社の組織を持った店の経営では、主人個人の思い通りにはゆかず、出荷係としてでも、彼を傭うことは、大変な恩恵のようであった。箔業者としての国夫の経験は浅く、むしろ此処では、失格者として扱われ、大学の文科出身としても、実力本位の大阪商人には一顧もされなかった訳である。

まだ勤めて間もない国夫の顔に、そうした負け目にある者の不如意さや、初めて人に使われる身の気苦労や、馴れない力仕事のための過労やらが、ありありと表われていて、彼を迎える、りつや妙子の気持には、世の一般の勤め人の家庭の気安さには、まだ程遠かった。

彼は元来行儀のよい、端座の姿勢を崩さぬ男であった。そんな姿勢のいい恰幅のある彼が、背広のまま、こんろで煮なおした寄せなべの、まだ湯気の上らぬのを、つつくのを見て、りつが、

「何処ぞ、もっと他の会社か、学校の先生の口でも探してみては……あんたはどうもそういうタイプの人やと思うが……。」

と言うのも、それほど愚痴めいた言葉とは思えなかった。りつは、逸早く息子の背広の背に荒仕事を思わせる繩くずのようなものを見つけていたのである。

「いや、ここでサラリーマンとして一生終る気はありません。東屋で、二、三年辛抱すれば、きっと帰る機会を掴んで見せる。東屋を頼って居れば、いざという時都合がいい。第一、金沢の箔屋の状勢が、金沢にいる時より、よく解るんだから……。」

そんな勢い込んだ国夫の言葉は、母や、妙子をほのぼのとさせたが、さすがに母は、ながい経験の老婆心のようなもので、

「それにしても、この戦争はどうなるものやら……もしや、戦争が大きくなれば、箔などまず見込みはなくなるの。」

「そんなことはあるまいな。支那を相手にそう何時までも。……」

国夫は心からそう思っているらしく、

「戦争のあとは、必ず贅沢品と、仏壇がついてまわる。それも金箔を使った上等の仏壇がね。……贅沢品にしてもおなじことだ。」

きっと金沢へ帰って一旗挙げると、何度か言ったことを繰返す彼の意志の裏には、暗にせいの居る金沢を、思いつめている口吻が伺えるのである。それにしても、上阪後、彼は一度もせいのことを口にしなくなっていたのである。

その時、膝で彦一をうたたねさせていた妙子が、思いがけぬことを言った。

「わたし、勤めてみたいと思うんですけど……。」

彼女は先刻アベノ橋まで出かけたことや、ちょっと歩いても、大阪の町には職業婦人の多いことを言いかけた。

「あんたが職業婦人か……。」

と国夫は歓喜に近いような奇妙な声を出した。

「なにか、町を歩いていましたら、じっとして居られないような気持になりました。」

大阪へ来て忽ち、金に窮した一家のなかでも、一番困らされている立場にある妙子のこの発言は、頭から誰もが反対しがたい、つよい、いきいきしたものをもっていた。が、暫くして、国夫は、思慮深そうに黙っているりつの方に気を配って言った。

「……いずれはそういう時もくると思うが、今はどうかな。彦一がもっとあんたの手を放れ、おばあちゃんも少し馴れてからでないと……。」

「彦一の面倒ぐらい、わたしが見ますけどね、妙さんの躰がどうですか。……何やら少しやせてしまいなさった。……今、誰が病気をしても困りますよ。」

りつはりつで尤もなことを言い、結局話はそこで落着したが、

「今日はアベノ橋まで出かけたと。」

国夫が妙子に先刻の続きのような期限のよい声で言った。

「そりゃよかった。少しでも大阪の活気にあたって元気を出しておくれ。僕にしても、何やかや言うても、船場の風にあたっているだけで、気持が張っていていい。大阪は全く働く者の町や。」

妙子は自分の殊勝な思いつきが、良人のやさしい言葉にあって、一点おもはゆくぼやけてゆくのを感じた。外の空気を吸って活動したいという張りつめた気持のどこかに、ひょっと群太郎とのめぐりあいを考えている空想めいたものがあるのだった。天王寺の病院へ出かけていって群太郎の消息をきいたことで、急に気持が外へ向かって展いていったのは否めなかった。

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