雪の喪章-第20章「彷徨する女」

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ヒコイチクンビヨウキスグコラレタシ

歳末から正月にかけて、白山下の後高高原へ、スキーに出かけた彦一のグループから、妙子の許へ、こんな電報がとどいたのは、正月の三日。

歳末の商取引の客でごった返していた旅館も、正月の三日となると、漸く洪水の退いたあとの静かさにかえったときであった。

彦一はすでに金沢大学の、英文学部の学生であった。山岳部に入っていて、夏も冬も、休暇となると、友人を誘って、山へゆく。北越近辺の山岳なら、奥の奥まで踏破したと自称するグループなのだ。この冬も、後高十キロのスキーコースを目指して、雀躍して出かけたものであった。

ここ二、三日、ラジオの天気予報や、ニュースに気を配っていた彼女は、今年は、例年より雪が多いという以外は、殊更不吉なニュースも聞いていなかったし、電報が、鶴来という、比較的交通の便利な温泉地からのものであるところから、彼が肺炎にでも罹って、旅館に臥かされていると想像するよりほかなかった。

女中たちに、留守中の指図をして、旅支度に忙いていると、そこへまた彦一からの電報で、ビヨウキナオツタクルニオヨバズ、と、たいへん気の勝った文面であった。ほっと、母親らしい安どの息をついたものの、一旦出発を思い立ってみると、ひょいと息子と旅の宿で、顔を合わせてみたいと思うのであった。

戦後、一流の旅館として「くすもと」は、美貌のおかみと、金箔御殿の名で知られるほどになっていた。発足当時、群太郎から、襖の融資を仰いだ以外は、殆ど妙子の自力で、十年近くのあいだに、新館、別館と、拡張してきただけに、この母子は、不断ろくに口をきくこともないほど、忙しく暮してきた。突然、悪戯っ子のように舞込んだ電報のために、彼女は、つい先刻まで考えてもいなかったことを、思いついてしまったのだ。

「病気が治ったのなら、尚好都合です。私も久々で山の宿に泊って休ませてもらいます。ほゝゝゝ、たまには私も旅のおひとになってみたい。」と、女中に冗談を言い言い、スラックスにトッパー、それに薬品や菓子を入れたリュックを背負うと、すらりとした長身が、女学生の頃にかえったようにいきいきと撓った。

彼女の想像どおり、彦一は、白山の三の宮のコースの途中で風邪を引込み、肺炎になりかかり、慌てて友人達に、鶴来温泉に連れて来られたものであった。倖いに、友人の一人に、新薬を持った医学生が居たので、大事に至らず、ただ余病の併発をさけて、恢復を待つばかりであったのだ。

妙子が宿へ着いたときは、すでに他の学生たちは、次のコース、獅子吼平にむかって出発し、彦一が一人、旅館の天井の低い二階の小部屋で臥ていた。ながながとした臥姿で見る彦一は、びっくりするほど大きく、国夫そっくりの温和な大人びた顔を、不意の見舞客にむけていた。彼は彼で、母のスラックス姿におどろいたらしかった。電報を打ったのに、と雪中大げさなリュックを背負って入ってきた母に、しかめ面をしたが、母が自分の休養をかねてやってきたものだと知ると、悦んだ。すでに彼は平熱に復り、時々咳と痰のために、ぜいぜい喉を鳴らしたが、電報どおり、看護が要るというほどのことはない。

彼にとって、殆ど初めてと言っていい母子水入らずの旅館の一夜であった。翌朝の快晴を思わせる凍みつくような雪の宿の感傷は、母子を沁々と打ちとけさせたものか、彦一の口から、恋びとの話が出たのである。妙子は、格別おどろきはしなかった。宿へ着くなり見た彦一の臥姿の大きさ、良人そっくりの顔から受けた衝動は、何となくそのような話題を予感させたのである。息子ではない。すでに男の量感を、彦一は持っていた。

「どんな娘さん?」

と妙子は訊いた。

「看護婦さんだ……。」

と彼は、わざとよそよそしく、さんをつけて言った。医学部の友人の紹介で、一年ばかり交際しているが、付属病院の看護婦だと言う。

「今度帰ったら紹介するよ。お母さんほど美しくはないけど……僕はあれでいいんだ。」

何でもない言葉なのに、良人そっくりの彦一の口からそう言われると、妙子は妙に自分が批判されているような、背かれているようなさびしい気持になった。彦一も、そんな話題の後味から、できるだけ無邪気を装って、妙子の持ってきた菓子を次々と漁りながら、

「正月って感じがやっとしたよ。正月菓子って綺麗だね。」

「ああァ、彦一さんが何でもなくてよかった。……雪の日の病人と聞いて、どきんとしてやって来ましたのよ。」

臥床に就いて、ながい髪を梳いていた妙子はおかしなことを言い出した。

「きまって、雪の日に、狭山のひとたちは死んでいますから……。」

「そんなこと。」

彦一はいかにも学生らしく、屈托なげに笑った。

「そんなこと、偶然ですよ。お母さんらしくもない。」

それよりお母さんに訊きたいことがある、と彦一は言い、歿ったせいの名を口にした。

「いったいうちのどんなひとか知らん。」とさりげない言い方をしたが、彼が物ごころ着く頃は金沢を離れていて、せいについての記憶はなかったらしい。せいが、自分の子の京太より大事にしていたことなど、まるで知らぬのであった。疎開してきて、初めてせいを見、せいと父母との、どちらが主人ともつかぬ交渉を訝しく思いながら成長してきたものである。が、こんなことを言った。

「死んだ京太という兄さんのおふくろさんだということは知っていますよ。」

一枚の色あせた写真を彦一は札入れから取出してきて、妙子に見せるのであった。

二十五、六年も前の写真であろうか、国夫とせいのあいだに京太のはさまっている写真である。おそらく、国夫が、大阪へ京太を連れていった前後、ひそかに三人で撮ったものらしく、京太は妙子が買って与えた大きな水平帽をかぶっていた。この写真が、せいの死の直後、その臥床の下から出て来たのだと、彦一は語ったが、彼は彼なりに母の気持を汲んで、そのまま今日まで黙っていたものであろう。

「狭山の家の大事なひと、と覚えておいて下さい。あなたが今言ったこと、それだけですよ。」

素っ気なく妙子は言うのであった。

「それより、彦一さん、御自分の好きなひとのことでも考えて上げるといい。」

彦一さん、と念を押して、中年女らしく陽気な笑いを付足したが、同時に眼のなかに涙が光った。愛について、と彼女は息子に告げたかった。その愛が、ほんとうのものであるか、ただ一人のひとへ、生涯かけたものであるか糺したかったのだ。

翌朝、目覚めと共に驚嘆したいほどの快晴にめぐまれた空を、母子は見た。宿は混むというほどでもなかったが、玄関では、スキーの手入れをする若いひとたちで溢れていた。

空気が透明で、人間の声が鳥のようにけたたましかった。若くて健康で、金に余裕のあるひとたちの生活が、どんなに快適なものであるか、手にとるように響いてくるのである。小さな一人きりの女中が転手古舞をしているのさえ弾んでゴムマリのようである。

妙子は、大氷柱というものを久々で見た。ここ二、三年、金沢の町では、あまり大雪を見なかった。低い宿の軒から垂れている氷柱は大きくて彼女の腕ぐらいはある。彼女が揺っても叩いても、びくともしないほど頑丈だった。

昨夜は、彦一の恢復を待って、金沢へ一緒に帰る話になっていたのだが、今朝の青空を見ると、彼は意を飜した。此処に居残って、治り次第、獅子吼平のコースへ出かけると言って肯かなかった。

「獅子吼平へ行けば、樹氷が見られる。」

と彼は言った。

「どうしても今、樹氷が見たいんだ。」

街へ帰って、恋びとを見ようとは言わなかった。が、それは、おなじひとへの悦びを口にしている風にとれたのである。

妙子は昨夜、国夫の夢を見た。

良人が、彼女の躰を求めて、嘆願し、泣訴し、奴隷のような痴態をしめしている夢であった。現実に、それは何度かあった場面であり、せいと良人の情事を目撃した妙子が取った復讐の場面であった筈であるのに、夢ではそうではなかった。眼が覚めてみると、彼女はえたいの知れぬ寂寥感におそわれていた。白い彼女のふくよかな胸は、たしかに良人の手に触れられた部分から、綿のように空虚なものに変えられていた。何を思ったものか、妙子は、軒下にぶら下がっている大氷柱を、力いっぱい引き抜くと、眼下の雪原に対って投げつけた。氷柱は、雪の腹に、鋭利な剣のように突刺さった。とげとげしい遊びであった。良人に復讐されていると思うのである。――生涯にただ一度訊いておくべき言葉が、この夫婦にはあるのだった。あなたは、いったい私を愛していたのだろうか?  何故一度も彼の胸を敲き、頬を打ち、そう糺さなかったのであろう。彼女はそんな自分を彼に投げつける代りに、氷柱をそこに敲きつけていたものにちがいない。そして、雪原めがけて飛下りてゆく自身の躰のけはいを、不吉な陰影にして感じているとき、背後から一通の電報を差出されていた。東京からの顧客筋が、大挙して来沢する旨を、留守居の女中が報せてよこしたものである。

宿の女中に、彦一のことをあれこれと頼んで、妙子が宿を出たのは、正午ごろであった。帰りは身軽くリュックもなかった。

スキーの手入れをしている若い人たちのあいだを通りすぎた時、スキーの塗料のにおいと革のたくましいにおいを嗅いだ。彦一の恋びともきっとこのにおいを嗅ぎ、これを恋びとのにおいとして記憶するだろう。妙子には若かった国夫に学校の級長の匂いと、工場から持込んでくる草いきれの匂いが記憶されていた。

そそくさと宿を発って来ながら、彼女は駅の方へは行かなかった。無論スキー場の方へも行かなかった。おそらく土地の人だけが通るにちがいない、一番せまくさみしい雪路を選んで歩いていったのは、そのとき彼女の心が虚ろに、ただ前方へ歩いてゆくだけでよかったのだ。

晴れた空の下に、倉ヶ岳の銀嶺が、一瞬裂けて動顛するほど鮮かに仰がれる地点で、大きな翳となって狼狽する女の孤独があった。息子の恋愛を知ったことからくる寂しさだとは思いたくはなかった。が、無言で歩いてゆく雪路は、突然彼女の眼から、色を奪うほど険しく、虚しいものに見えたのである。思いもよらぬ不幸なものに行当ったように、彼女はそこによろめき、倒れかけた。その恰好は、丁度なにかに蹴転がされてでもいるようであった。「愛していたか?」と彼女の方こそ、国夫にこう浴びせられて、蹴られ、頬を打たれている、そんな受身のよろめき方であったのだ。

見渡す限りの雪原であった。よろめいたまま彼女はそこに俯伏して暫く気遠い気持に浸っていた。そのとき、遠くで、今度は、「若奥さまァ。」と呼ぶ声がしたのである。しかし何処にも人影はなかった。無論、彼女の空耳にちがいない。第一、群太郎が此処へ現われる筈もなければ、昔のように呼ぶ筈もないのだった。そのことが、妙子に、はっと現実に飛びついてしまえた安堵と寂寥感を与えていた。

群太郎と妙子とのあいだには、すでに貸借の関わりはなく、彼が地方の顧客を、彼女の旅館に斡旋する程度の交際でしかなかった。彼女の思惑どおり、見返り物資として、進出した洋、アルミ箔の外国評価はわるくなく、輸出箔は目ざましく、伸びてきた。それらの殆どは、日下の工場で生産されていた。正月の土地の新聞に名士の一人として、写真入りで彼が製箔の抱負を述べているのを、つい二、三日前に見たばかりである。

妙子は硬い雪質のなじめない痛さに出遭って、躰を起すと、なまなましい男の声を、更にもう一度たしかめようと、耳をすませて立っていた。……あのとき「若奥さまァ。」と、夢香山の谷底から呼んでいた男の声、あのように真摯に、やさしく呼ぶ男の声を、それ以後聞いたことがなかったのだ。

――何もしなかった、という奇妙な悔恨の叫び声が、彼女の心の内奥から、その谺のように響いてくるのである。真昼の雪原のただ中にぽつんと佇っている彼女の姿は、そのままなにか非常にながいあいだの観念と徒労とに喰い荒されて、ぼろぼろになった旗のようにしょんぼりと見えるのだった。

 

翌日の新聞で、彼女は、意外な男の死を知った。群太郎の急死が、写真入りで出ていたのである。

山中温泉に投宿中の彼が、正午頃、朝湯、朝酒の機嫌で、付近へ雪見に出かけたまま、行方不明となり、夕刻、山中の雪の中で昏倒しているのを発見されたというのである。原因は、高血圧による急性脳出血としてある。

妙子が歩いていた鶴来と、彼が湯治に出かけた山中温泉とでは、全く方向がちがう。たとえ彼がほんとうに呼んだとしても妙子に聞える筈はなかった。ただ、正午という時間に、どちらもが雪原に立っていたという偶然だけが一致する。

彼女は、電話で取りつけの花屋へ、供花を注文した。色とりどりの、とくべつ華やかな花々を、口から出まかせに注文して、日下家へ届けさせたが、それはそのまま結婚式に飾ってもおかしくない明るい色彩の供花であった。

最初から心の片隅に追いやられ、何時明るみに拉れ出されることもなかった二人だけの貧しげな記憶の上に、それだけは、情事のごとくあでやかに、やさしくのせてみたかった。

彼女をして、宿の二階から氷柱の剣を投げさせたもの、あの寂しい雪原の道を歩かせたもの、その正体はと言えば、二人の男が、地の底から呼んでいた声――あの死ぬように寂しかった女だけが知るまよいを、彼女は肝に銘ずる思いで、

「雪の日は厭、厭。」と呟いていた。

とにかく仕事、仕事と、羽織なしの塩沢御召に黒繻子の帯を結んだ彼女は、零下に冷込んだ廊下を往来して、女中たちを指図していた。大広間に新年用の金屏風をはりめぐらし、東京からの客の一団を待つばかりであった。

(完)

<雪の喪章 目次>

第2章  そのひと
第3章  鴨料理
第4章  深淵
第5章  谺(こだま)
第6章  秤が搖れる
第7章  灰燼
第8章  燃えなかったもの
第9章  氷室
第10章 青いデンキの病院
第11章 凄惨な団欒
第12章 施療院へ
第13章 春はからし菜
第14章 留守家族
第15章 ある画会の挿話
第16章 帰郷
第17章 二つのあいびき
第18章 告白する女
第19章 金と銀
第20章 彷徨する女


金沢を観光してみたいかも」