第19章  金と銀

妙子は、自分が旅館のおかみになるなど、夢にも思っていなかった。だが、せいに死なれ、良人に先立たれ、ふっと気がついたときは、建物と母子だけが遺されていたのだ。ぼつぼつと疎開者たちが引揚げてゆき、部屋が空くと同時に否も応もなく、もとの旅館として客の出入りがあるようになっていた。彼女はその上歿ったせいの悲願のようなものに責められた。病気の躰をおして、隣家を買取る手続きに懸命になっていたせいの日々の孤独の貌――この建物のどこかに、あの貌がはりついているのだった。

臨終のとき、せいが殆ど妙子にそっぽをむいていたことも、妙子にはこたえている。そっぽをむくというより、せいはそのとき、国夫しか見ることができなかったのだ。女が持っている当然のものを、ぎりぎりのところで、ついにせいのような女も差出したという嘆きなのだった。そしてこの臨終にせいが放った悲しい一矢は、妙子の涸渇した心に突刺さり、もろくも何処か崩れてゆく一点があった。清冽な、そして、せいと自分の上に共通した悲しみが、初めてそこから、流れ出したのである。旅館経営の発心というのも、探ってみれば、そうした心の動きから出たものかも知れなかった。

しかし、客が増えてくるに従い、本格的な改装に迫られ、その費用の出どころといってはどこにもなかった。すでに新館は、良人とせいの葬儀などで抵当に入っていたし、本館の廃寺のように荒れはてた建物に至っては、何処からとも手の施しようがなかった。しかも逸早く観光都市として起上りつつある町の形勢は、彼女を慌てさせるのだった。

彼女が、製箔の看板を掲げて、手広く商売をはじめた日下群太郎を訪ねていったのは、そうした思案の末でもあったが、彼との過去に埋め得なかった空白の部分を、急に独りになって、なにか記憶を新たにして考えてみたかったのかもしれなかった。「何もしなかった。」というあの時の充足した気持が、やはり何時となく、空虚感となっていたのである。それにしても、群太郎の許へ、自分はいま資金の調達にゆくのだという意識は、その時、彼女の躬の裡を、鞭のように快適にひとめぐりした。いや、彼女の心の奥には、群太郎に敗北した良人のための復讐のようなものが、昂然と居据っているのだった。

途上、彼女は珍しいひとに逢った。級友の沖津芳子であった。かつて逢ったとおなじところで、偶然にも二人は対き合っていた。

「お久しゅう……。」

若かった二人の顔には、おなじほどに中年の骨格が浮上り、それぞれの運命が、そのなかに住みついているのを眺めあった。派手好きで、芸ごとに凝っていた芳子は逸早くモンペをかなぐり捨てて、若い頃の大柄の着物を着ていた。が、それは華やかな印象を与えず、色あせていたせいか、つつましい有合せを着ているとしか見えなかった。芳子は、良人がまだ外地から還って来ないことを告げた。彼女は大きな薬種商の二男に嫁いで、開業したばかりの日、良人が応召したものである。十年来の出征で、女の子が一人あった。フイリッピンに居るのだが、永らく音信不通だと言う。

「私、なにをして喰べているとお思いになる?  踊りの出張教授……いまも一軒済ませてきたところ。」

彼女は、舞扇らしいものを包んだ袱紗を妙子に見せて言った。

「はやくも子供に踊りを習わせようという家があるの、……助かるわ。」

芳子はその家の名を「日下」となにげなく言った。

「もとのあなたのお家の辺りじゃないかしら、そう言えば、箔の工場もあるのよ。」

この友は、日下と狭山との関わりは知らぬのであった。

「わたしも、その日下さんへ行くところだけど、あそこに踊りを習うようなお嬢さんがおありなの?」

「可愛いい五つのお嬢さんが一人……。」

「そう……。」

「とても上手に踊るの。」

沖津芳子はそんなに言ってから、漸く妙子の身辺のことを訊いた。粋ごのみの妙子のま新しい結城の着物が、時節柄、豪奢に見えたのである。良人の死を妙子はぽつりと言った。

「今は、宿屋のおかみです。……駅前で、くすもと、と訊いて下さればわかります。一度お遊びにいらして下さい。」

そんな妙子を、しげしげと見て芳子は言った。

「あなた、すっかりほんものの女将さんにおなりね。ほんとに思いもよらなかったわ、しっかりしたおひと……。」

「あなたこそ、しんのつよいおひと。」

「よかったわ、無事に逢えて。また逢いましょう。」

戦争のきびしさは口にせず、現在のそれぞれの扮装に見えるだけのものを見合って、お互いにおどろきつつ別れた。

日下の家の前の広っぱを通り過ぎようとして、妙子は立止った。以前、一年ばかり前に見た倉庫の俤げはなく、間口は拡げられ、看板もま新しく活溌な商家と変っていた。遠く背景になった川原の柳並木が、ちかちかと陽炎に揺られ、あたりの風物は、地から湧く春の体温に、かよわく、なまめかしく動いていた。だが、彼女の足をとめさせ、心に喰い入るような寂寥感を与えたのは、箔工場から響いてくる機械の音であった。地に腹這って呻く傲岸な獣の怒号にも似た響きの間を縫って、ふしぎにも亡き良人の慟哭としか思えぬ哀切なものが響いてくる。尚よく耳を傾けていると、永い歳月の変転が、此処に至って、瀑布のように轟いている感慨であった。

妙子は木の香も新しい客間に通された。座卓も、茶器も新築にあわせて造ったらしく、手触りのいい、光沢のあるものばかりである。彼の妻なる人は病中とかで、挨拶に現われないが、娘はまだ踊っているらしく、ゆるい童謡のレコードが奥の方から聞えてくる。これが、日下群太郎を取り捲いている彼の日常であり家庭なのだと、妙子は眼を凝らしながら、店の間から、ずっしずっしと足を運ぶ主人を待っているのである。

群太郎は大阪の頃とたいした変り方をしていなかった。ややうすくなった頭髪のほかには顔に金縁眼鏡を増やしただけである。第一印象の外貌はそんなに受取れたが、最初に見合った眼の中には、すでに以前の燃えるようなものはなかった。

「空襲で一切合切燃やしてしもうて……裸一つで出直しだす。」

それが彼の最初の挨拶だった。

早春の昼らしく、直ぐ灰になってゆく柔らかな切炭をのせた箱火鉢が、二人のあいだにあり、彼女のかざした手は、群太郎が手を伸ばせば把れるほどの距離にあった。が、今はそんな憶測が無意味なほど、彼女の持出した用件は、切々と現実の身構えをしていたのだ。そして、それは実にあっさりと、彼に断られてしまったのである。商売を始めたといっても、彼自身が金策に奔走している現状だと言い、この先、政府が箔の輸出に対してどんな手を打つものか、業者は皆目手探り状態で操業していると言う。

「地金の制限が、おまけにとんと弛んでいないのでね……。」

彼はいかにも商売人らしい計算を喋った。格別、妙子という女の出現を、重大視する表情をしていなかった。その申出を、悪意で拒もうとしている風もなかった。多忙な商人が、時間を割いて、相手の用件を訊くために対い合っているとしか思えなかった。妙子が、狭山の家へ嫁いで来て、彼から最初に受けた印象と、それはよく似ていた。自分を無視しようとした男を直感した時、妙子は逆にそのまま引退ることのできない、つよい反撥にかられたのである。彼女の眼は、直ぐ傍らの、部屋の襖にじっと注がれていた。襖全体に、金の切箔と金銀砂子を散らした豪華な絹張りであった。

「いまどき、立派な襖が入って居りますが……。」

と、眼を見はっておいて、融資がむつかしいなら、品物で廻して下さるまいか、差当って、このような襖が百枚もあれば、と、胸算用をして、

「時勢がよくなって、見る見る旅のお客が美しくなってきました。旅館でも、ただ寝泊りするだけの場所では、やってゆけません。」

「…………」

「畳百帖、とりあえずこれはもとの狭山へ出入りの畳屋を頼って決めてきました。無論条件づきでございます。災害地の富山や福井の業者に売込むんです。その点旅館は、見本市のようなものですから……襖でも、箔でも廻して下さい。どんどん捌いて見せますから。」

群太郎は、呆っ気にとられながら、そんな妙子の口説に誘われて言った。

「大阪の空襲で、思いきりよう何も彼も燃やしてしもて……三カ所に散らばった工場を三カ所ともやられましてん。……実は、今となればそれもよろしかった。それからふっつり人生観も変りました。はゝゝゝ。」

人間、一生に一度は、何も彼も灰にしてしもうものだ、と訴える顔には、妙子への執着も今はなくなったと言いたげであった。

「あんさんも一切裸になったところで立上りまっか……。」

「旅館家業はおもしろうございます。いろいろの方面のいろいろの情報が入ります。アメリカ向け見返り物資に、洋箔が何より有望というではありませんか。」

「見返り物資の話はあるにはあったが。」

群太郎は、眼鏡越しの鋭い眼で、妙子を瞠めてそう答えたが、進駐軍関係の情報は、どうやら妙子の方が詳しいらしい。あらゆる方面に亙って進駐軍の計画と命令が浸透していた頃であり、最近東京へ帰っていった疎開者を通じて、妙子はそれらの情報を入手していたのである。

「なにせ、この夏までには実現させねば、政府も困るのだそうです。何といってもこれからは、アルミ、洋箔の時代でしょうね。何時か仰言ったように、戦後の世界がピカピカ光るようになりますか。」

言っていて、妙子は、はっとして口をつぐんだ。彼の商魂と焦点を合せている自分の勢いった情熱じみたものを、ふと恋ごころのような哀れなものに錯覚したのである。

「左様、まがいものでも何でも金銀でピカピカ光らさねば、人間は平和がきたと信じまへん。有難いことに……。」

そんな妙子をまじまじと見て、群太郎が言った。

「せいさんが歿って、あとは綺麗なひとが経営してなはると評判ですぞ。」

彼が、「せい」の名を口にしたのは、それだけであった。せいを囲っていたことも、その旅館を買いとってやったことも告白しなかった。おそらくそれが、せいの口から洩れなかったものとして、彼自身が、せいをかばっているほどの自然さであった。しばらく経って、彼は、「襖の件、何とかしましょう。」と言った。

「有難うございます。おかげで美しい襖を、旅のお方に見てもらえます。……せいぜい、こちらも箔の宣伝をさせて頂きます。」

「あはゝゝ、あんさんも、すっかり変らはった。」

群太郎は、まじまじと妙子を瞠めていた眼の色をもとに返して、愉快そうに笑い声をあげた。「その実、あんさんほど変らへんお方もあるまい……あんさんは、いつもそれになりきるお方でした。弱い哀れな若奥さまになりきったこともあれば、りりしい軍国の妻になりきってもみせて下さった。……そしていまは、粋で、勝気で、商売上手の旅館のおかみさんです。」

席を立って、愛想よく挨拶する妙子へ、彼は、こんな沁々とした言葉を浴びせるのであったが、

「今度の旅館の名、何とお言いかな?」

と訊いた。

「くすもと。」

と妙子は、あでやかな、くっきりとしたえくぼの顔でふり返りながら返事をしていた。

「いや、新しいあんさんの旅館の名……。」

「くすもとです。」

そのとき、妙子は、せいの生涯を、自分と群太郎の前に差出しているきびしい何者かの声を聞いたのだ。少くとも、彼女の今先刻までのお色気さえまじえたお喋りは、その声の主に奪りあげられたのである。せいの生涯を購った者どものざんげの声、――とするとそれは、妙子自身を含めた狭山家の者の声であったのかも知れなかった。

金沢観光の楽しさをご紹介するサイトです
金沢を観光してみたいかも

水芦光子さん原作『雪の喪章』 全文掲載